【HHM2参加作品】「沈黙」を聞き、「いま」を読む — 縞田みやぎさんの「春に寄せて」
N.K.

 今年も春が巡ってくる。年度替わりの時期でもある。一つの区切りではあるので、年度を振り返ろうとしたら、ここ数年の振り返りとなり、出版された詩集を数多く読んできたわけではないと不勉強さに気づく。それでも「石の記憶」や「詩の礫」、そして「眼の海」を読み、「石原吉郎―詩文学の核心」という本が出されたのを機に、石原吉郎を読んだ。他にも読んだもので、大切だと思った詩集はある。それでもなお、上のようなものを挙げたのには、やはり自分なりの一つの基調が、自分にとって止むに止まれず求めつつあるものが、感じられるからである。
 こういう言い方が当てはまるかどうか、躊躇しながらでも言ってしまえば、否応なしに理解を越える出来事を体験した場合、それに対して詩で立ち向かうことが何ができるのかできないのか、出版された詩の中でもネット詩の中でも、意識する/しないに関わらず、日々の生活の中で、読者として、自分なりにその点を模索したいと思わされている。
 あの時、JRは駅を閉め、私鉄も順次止まった。そんな中、幸運にも、職場の同僚の車に同乗させてもらって道を進んでいくと、幹線道路から一本入った道でさえ、信号機は灯ることがなかった。道と道との合流点では皆恐る恐る進む中で、車の流れは当然悪くなり、気付けば道は車であふれていた。渋滞に巻き込まれながらも、何とか帰宅でき、子どもを寝かしつけた後、何をしたかと言えば、現フォのRTを覗いたのである。何とか帰宅したことを書き込んだ際、小池さんの暖かな言葉に触れることができたことを、ついこの間の事のように思い出す。それは、実家の様子を見に行くと言っていた同僚が、方向が一緒だからと乗せてくれた気遣いや、携帯電話は繋がりにくくなっていたが、会社の固定電話を使うのは躊躇われ、なかなか連絡が取れぬまま自分を抑えねばと思う時間を過ごし、それでも夕方、家族と連絡が取れた時の安堵感とともに、自分にとってのリアリティであった。小池さんの皆を気遣う言葉によって、実際には本人に一度もお会いすることはなかったが、ヴァーチャルではない、お人柄に触れることができたと感じる。
 そのような繋がりを持てていたのは、現代詩フォーラムと言うサイトを介してであるが、自分にとってネット詩は、仮想というより、現実の経験を織りなすものの一部だ。媒介と言うよりは本質であり、機能と言うよりは実体である。以上のような問題意識を持って、取り上げたい詩がある。縞田みやぎさんの「春に寄せて」である。
 縞田みやぎさんの「春に寄せて」は、批評(散文)として投稿された作品である。しかし、分類の意図を越えて、「詩」を触発する「詩」なのだと改めて思う。縞田さんにはお会いしたことはない。しかし、「春に寄せて」は、自分にとって、今ここで、リアリティであり続けていたりする「詩」である。

  春に寄せて          縞田みやぎ
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=230324

被災地よりみなさんへ。
なんでもいい、花を育ててください。
こちらには手向けの花も祝う花も慰めの花もない。
どうか花を育てて、祈ってください。

 この作品を、型に嵌まった解釈で矮小化してはならないと思う。にもかかわらず、自分はよく知られた次の詩と共振するのではないかという思念に捕らわれざるを得ず、その響き合いに耳を澄まさざるを得ないという思いに駆られる。

四月はこの上なく残酷な月、
死の大地からライラックを育て上げ、
追憶と欲望をかき混ぜ、春の雨で
生気の無い根を奮い立たせる。
   (福田陸太郎 森山泰夫注解 T.S.エリオット「荒地」?. 死者の埋葬より)

 「春に寄せて」は呼びかけている。自分は応えたいと思った。実際、一編の「詩」で応えたように思う。応えきれたとは思ってはいない。他方で、エリオットの詩行には、警告を受けたように感じた。「追憶と欲望をかき混ぜ」られて、語りえぬものを語りえるものへと引きずりおろしてしまうのではないか、そんな考えに囚われた。石原吉郎は「沈黙するために書く」と言ったが、その文脈で良く理解できるように思えた。
 自分が言いたいことは、「春に寄せて」が指し示すのは、なんと豊かな「沈黙」であるだろうか、ということである。
 「春に寄せて」に応えたい。これがここ数年の自分のリアリティである。実際、花を育て、いくつかが咲き、いくつかは咲かずに枯れた。祈ることをした。しかし、一体何を祈るべきなのだろうか?「花を育てて、」と「祈る」の間に引き込まれる自分がいる。そう考えながら、さらにエリオットの詩を追っていくと眼の覚めるような思いをさせられる箇所がある。

絡みつくこの根は何か、この石屑の中から
どんな枝が萌え出でるのか。人の子よ
君は知らない、予想できない。
(中略)
(来たまえこの赤い岩の陰に)
そうしたらきみにみせてあげよう、
(中略)
君に見せて上げよう、恐怖を、一握りの土の中に
     (福田陸太郎 森山泰夫注解 同上 ただし、(中略)はN.K.による。)

 「追憶と欲望をかき混ぜ」られて育てられるものは、おそらく、このような帰結を伴うのかもしれない。「恐怖」は原語ではfearである。福島第一原子力発電所の事故のことなど考えさせる部分ではある。それでも、そのことも排除しないままで、東日本の出来事に関わる人々への(語義的には古風かもしれないが)「畏敬」としての意味として、fearを捉えることはできはしないだろうか?土に帰るべき人間が、土に帰る存在だからこそ、一握りの土を通して、尊敬すべき存在だと気づかされることが些かなりともあるとは言えないだろうか?そうして、恐怖で祈れなくなるのではなく、むしろ、畏敬することで祈るということができるようになると、言えないだろうか?祈ると言うことは、決して恐怖による強迫によるのではなく、向日性を持つ花が陽に向かうのと同様に、リアリティへと自己を向かわせる必要が生むのだと言えないだろうか?「詩」から、語りえぬものを聴き分けて、それから、(石原吉郎の言う意味で)沈黙するために書くということが、以上のような畏敬の念を抱くと言うことや祈りの意味と重なるとは言えないだろうか?そうやって見ると、繰り返すが、惹きこまれていく、「春に寄せて」の沈黙は、何と豊かなものであるだろうか!
 リアリティは統一性など元々なかったのか、自分にとって浮かび上がってきたここ数年のリアリティは「欠片」であり、生の全体のほとんどは、沈黙というダークマターで覆われているように思える。しかし、それは「空にぶちまけられた宝石」のように愛おしく煌めいて、沈黙の豊かさに気づかせてくれるように思う。過去の中にあるいは未来の中に「いま」が混じっていると言うようなベンヤミンの(煌めくような!)時間意識が初めて納得できるような心持ちでいる。これは、最近、自分がインフルエンザB型であることが判明し、処方されたイナビルを服用したための副作用によるのだと、言い切れないところがあると思う。
 また今年も春がめぐって来る。「春に寄せて」は、この上ない残酷な四月に、聞かれなければならない「沈黙」であり、読まれねばならない「いま」だと思う。


散文(批評随筆小説等) 【HHM2参加作品】「沈黙」を聞き、「いま」を読む — 縞田みやぎさんの「春に寄せて」 Copyright N.K. 2014-03-24 20:56:18
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