HHM2開催に寄せて 過去の批評祭作品レビュー
深水遊脚

 要らぬ心配かもしれませんが、前回のHHMほどには開催前のいろんな声が聞こえてこない気がします。毎回同じように盛り上がる必要はありませんし、始まってみて参加作品の投稿があれば何も問題はありません。ただ単純に寂しいと感じた、それだけの理由で私なりにプロフィールBBSに、過去の批評祭作品から何作か選んでレビューを書いてみました。5つ揃い、その5つにある共通点を発見したので、散文カテゴリーに投稿することにしました。

 詩から離れて、現代詩フォーラムに戻り、また離れる、そんなことをずっと繰り返している私です。ほんとうは詩について語ることをもっと控えるべきなのかもしれません。詩から遠いこの立ち位置をこれからも続けると思います。ただし、詩にある程度フレンドリーな観客として。ポイントこそ入れませんが(このポリシー、まだもう少し続けます。HHMでは3つだけポイント入れますが。)コメントするときはちゃんと詩に向き合います。そのために必要な知識があればそれを活用しますし、必要な知識を持っていなければ保留します。保留した状態でも書ける言葉はあります。探求をやめた言葉、それを言っちゃあお仕舞いだよ、という言葉は吐かないつもりです(吐いていない自信はあまりありませんが)。

 詩について書かれた散文は、私が詩に向き合うためにとてもありがたいものです。「詩が読まれないから、詩について書かれた文章が読まれない」という側面は確かにあると思います。それでも、詩の奥行きを探ってみようという遊びには、魅力的に書かれた散文が必要です。詩の雑誌を読むときも、詩だけを選んで読むこともあるけれど、詩について書かれた文章と詩を交互に読むことのほうが多いです。散文のほうが取っつきやすいのです。詩の入り口にたつために必要な散文というのは確かにあります。

 インターネット上の書き手は不安定です。嘘つきもいれば、相手が誰かもわからないのに説教を始める人もいます。書いたあとでアカウントを消す人も後を断ちません。そんな不安定な主体が書いたものに完全を求めることを、私はしません。私でなくても、普通はしないでしょう。私が選んだ批評作品は、整ったものよりは、主張が明確なもので記憶に残るものです。紹介するにあたり、毒気のあるものについては、酷評スタイルで書いたり皮肉を入れたりして、対抗する毒をぶつけて相殺してみました。散文投稿にあたり、修正してみようとも思いましたが、このまま投稿します。



「つめたくひかる、1―江國香織『すみれの花の砂糖づけ』」 ことこ 批評祭4

http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=201263


 たった4箇所しか登場していない「つめたい」という言葉なのに、江國香織さんの詩の印象をとてもよく伝えているように思える。江國香織さんが魅力的にこの言葉を使っていること、ひらがなで書かれているのでやわらかく自然な感じで読むひとのなかに入ってくること、それもある。でも批評の書き手が、「つめたい」の語感を確かめて、愛読する詩というひとつの空間のなかで、試着するようにそれを確かめているからかもしれない。愛着のあるものを語れば、知らないうちになにかの欠片が散りばめられるのだと思う。


「客観描写ということ(高浜虚子)」 古月 批評祭 4

http://hihyosai.blog55.fc2.com/blog-entry-99.html

古月氏が想定するこの作品の読者はごく限られる。その限られた読者に対して、高浜虚子の俳句についての理論を暑苦しく語る昭和の熱血教師のような語り口だ。読む読まないは自由であり、高浜虚子の理論が手軽に読める以外にはあまりメリットはないだろう。むしろ真面目に読み過ぎないほうがいい。客観的なものの見方が身に付くというメリットがある一方で、詩がつまらなくなるというデメリットがこの散文にはあると私は思う。物事をよく観察する。好きか嫌いかの刺激に反射するのではなく、なぜを考える。それを実行し、継続すれば、この散文も、高浜虚子も、読む必要はないだろう。

「詩の受容と解釈の性差について―ディキンスンとホイットマン」 田中宏輔 批評祭6/HHM1

http://hihyosai.blog55.fc2.com/blog-entry-213.html? sp

ディキンスン、ホイットマン、シェイクスピア、ポオなどの詩のなかから、atom という言葉を使用したものが集められ引用されている。言葉同士の結合、twitter による発信と受信など、動的な思考のあり方について柔軟に展開される。その要になっているのが、原子に関する中盤の緻密で丁寧な考察だ。これがあることにより、様々な思考展開も無理なく理解できるようになっている。読むのに骨が折れるが、この論考は、異なるジャンルの間にある無用な垣根を外しながら、個々の詩への丁寧な接触を可能にしてくれるように思える。

「ネット詩の耐えられない軽さ」 八柳李花 批評祭 5
http://hihyosai.blog55.fc2.com/blog-entry-84.html

ネット詩人にちゃんとした詩を読もうと呼びかけるその主張は正しいと思う。ポイントなしのコメントを始めてみて、「発展性のないスパイラル」という現象が確かにあるのを感じる。タイトルのセンスの悪さ、批評祭終了直後のアカウント削除がまるでネット詩人みたいだったこと、いろいろよく覚えている。記憶に残るように書き、記憶に残るように振る舞ったこの作者を、いまはもう少し肯定的にみている。複雑に書こうとも、無難に書こうともしなかったのだ。

「ビル・マックィーンの詩について。あるいは夢について。」Debby 批評祭6/HHM1
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=267663

すでに明らかになっている通り、批評対象の詩人もその作品も実在しない。にもかかわらず人にそう思わせないリアリティがある。ちなみに私がつけたコメントは「死に際の元ネタ、あんた前にも一回詩に使っただろう。読んだことあるぞ。」をソフトに言い換えたもの。


散文(批評随筆小説等) HHM2開催に寄せて 過去の批評祭作品レビュー Copyright 深水遊脚 2014-03-11 19:44:41
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