啓典の記憶
2012

次元の狭間に巻き込まれるようにして、0と1の波間で揺れる「記憶」という名の島がありました。

島の中央には青白くそびえ立つ監視塔があります。
辺境にはひなびた村があり、そこにペルディーダという若い母とカノープという幼い娘が暮らしていました。
母娘の家は貧しく、ペルディーダは毎晩のように監視塔に働きに出ます。
ペルディーダが帰って来るのはいつもカノープが目覚める頃でした。


ペルディーダはカノープにいつもこういいつけました。

「夜に訪ねてくる人がいても、言うことを聞いて戸を開けてははだめ。恐ろしい悪魔に食べられてしまうから」

ペルディーダの留守中、雲一つなく月が輝く夜には、決まって誰かが戸を叩きに来ます。
戸を叩きに来る誰かは、毎度別の人のようでしたが、カノープがペルディーダのいいつけをよく守っていると、
いつも同じ言葉を呟いて去って行きました。

「ぬうむ、聖月蝕の火祭の晩には。必ず」


それから三月経ち、聖月蝕の火祭の晩がやって来ました。
カノープはいつものように床について布団の中に潜り込むのですが、
遠くから火祭の陽気なお囃子が聞こえて来ます。

聖月蝕の夜、月が南天に輝やいて蝕が始まる時、火祭のもっとも重要な儀式「火刑」が行われます。

夜が更けていくにつれて、お囃子の陽気さが増すのをカノープは布団の中で聞いていました。
すると窓の外から男の子の声がします。

「ねえ、カノープ、まだ起きてるかい?起きてたら一緒に火刑を見に行こうよ。君は覚えてないかも知れないけど、僕はグラビティ。君が寺院で生まれた時に、僕は五歳で、僕達は一緒に洗礼を受けたんだ」

カノープは驚いて、窓から聞こえる声に答えます。

「ねえ、グラビティ、どうして私の家を知っているの?」

グラビティは即座に答えます。

「そんなの簡単さ。パノプティコンが教えてくれたんだよ。さあ、もうじき火刑が始まるよ」

カノープはわくわくして布団から飛び出ました。可愛らしい余所行きの恰好に着替えて、戸を開けて月明かりの外に出ました。
そこには利発そうですが、どこか冷い印象を持つグラビティがいました。
そしてその傍らに、何か見てはいけないもの、ギルグルがいました。

「やあカノープ、やっと会えたね。さあ、早く。火刑を見に行こう」


昏く冷いグラビティの手が月の光で白く透き通るカノープの手を引いて、火祭の喧騒に近づいて行きます。

「ねえ、カノープ、ところで僕達と一緒に洗礼を受けたもう一人の男の子はどこで暮らしているの?僕はどうしても彼を見つけられないんだ。パノプティコンでさえ見つけられない。君は彼がどこにいるか知っているんだろう?」


カノープは少し困惑しました。グラビティがどうしてその男の子を探しているのかが分かりませんでしたが、カノープは自分が知っていることをグラビティに教えてあげました。

「一緒に洗礼を受けた男の子なら知ってる。ソルアスタっていう名前で、どこかの寺院で従者をしていると聞いたわ」

グラビティは薄ら笑いを浮かべて言いました。

「そうか、ソルアスタか。アスタロートは名前を変えていたんだね。どうりで見からないわけだ」

そういってグラビティが何事かをギルグルに囁くと、ギルグルはあたりに瘴気を撒き散らしながらどこかに走り去ってしまいました。
それはまるで邪悪極まる風のようでした。



恐ろしい速さで、ギルグルはパノプティコンがいる監視塔の最下層まで来ました。

そこではパノプティコンと数人の女性が酒神バッコスを称えながら、「晩餐」を楽しんでいました。
その中に、ペルディーダもいました。

ギルグルはパノプティコンにことの次第を報告しました。
パノプティコンはソルアスタの名前を聞くと即座に彼の風貌と居場所をつかみ、それをギルグルに伝えました。

「食べてもかまわんが、とにかく骨と灰だけは持ち帰れ。骨壺と併せてソルアスタの骨と灰が必要だ」

パノプティコンの寵愛を受けて朦朧としていたペルディーダは骨壺という言葉を聞き、その話が只事でないことを直感しました。骨壺とは、カノープの名前の由来でした。しかしペルディーダには何も為す術がありませんでした。

ソルアスタの風貌と居場所を聞いたギルグルはまだら牛の町にある寺院ヤクルオーンまでひとっ飛びしました。
果たして、そこにソルアスタがいました。



ギルグルが来るのをまるで予期していたかのようにソルアスタは毅然としていました。
ギルグルがいいました。

「おまえは徴を持っているのだろう。聖なる徴を、おれにもよこせ」

ソルアスタはギルグルにいいます。

「他人の徴を奪ったところでたいした意味はない。それよりおまえ自身の徴に早く気付け。パノプティコンはおまえをだましているぞ」

そういってソルアスタはギルグルに徴のなんたるかを説き明かしました。

ギルグルは驚き仰天し、凄まじい速さでその場から姿を消しました。



火祭の喧騒がいよいよ近づいてくると、グラビティは薄ら笑いを浮かべて言いました。

「ねえ、カノープ、君には徴がある。聖なる徴さ。とても魅力的だ。僕は、君の徴がどうしても見たいんだ」

火祭の会場につくと、カノープは恥ずかしそうにしていましたが、とうとうグラビティに自らの内に秘めた徴を見せてしまいました。
グラビティはカノープの徴をじっくりと味わい、完全に徴を奪ってしまうとカノープをあっけなく火刑に処しました。
聖月蝕の夜、南天に輝く月が影に蝕まれる刻限に、火祭のお囃子は一際陽気さを増しました。

骨と灰になって骨壺に入れられたカノープに、グラビティは薄ら笑いを浮かべながらこういいました。

「ところで、カノープ、君の名前も確か骨壺という意味だった。これでようやく君の徴は完成したじゃないか」



聖月蝕の夜が明け、ペルディーダが家に戻ってきました。
そこにカノープはいません。昨晩遅く、グラビティがパノプティコンのところまで持って来たあの骨壺がやはりカノープだったのです。
ペルディーダは自分自身を強く呪い、体を結晶化させました。

そこにソルアスタが現れました。

結晶化してしまったペルディーダは、禍々しい光を以てソルアスタに自らの思いを伝えました。
ペルディーダはソルアスタに、パノプティコンの殺害を依頼したのです。


ソルアスタはペルディーダが放つ禍々しい光に半ば幻惑され、彼女の依頼を受け入れました。


ソルアスタはパノプティコンを殺害するために、一度寺院に戻りました。
寺院には高位の徳を持つソウルフラワーがいます。

ソウルフラワーは監視塔に入るためにはまず鷹の翼が必要だといい、
パノプティコンを殺害するためには最終的に蛇の毒が必要だといいました。



ソウルフラワーはソルアスタに問います。

「ソルアスタよ、もしおまえの実の父親がパノプティコンだったとしたら、おまえはパノプティコンを殺せるか」

ソルアスタは答えます。

「無論です。人倫の理がどうあれこの世は永遠に回帰する空の世界。数えるという行為が愚かしいほどに、私は既に幾度と無くパノプティコンに殺され、逆にパノプティコンを殺してきたのかもしれない。父親だとして、どうしてそれが障りになりましょうか」


ソウルフラワーは静かに頷くと、部屋の奥からホークアイとエキドナという対照的な二人の女性を呼び出しました。
ホークアイは凛とした瞳の中に潤むような光を湛え、エキドナは蠱惑的な流し目と匂い立つような艶を帯びています。
ソウルフラワーは二人の女性にソルアスタの手助けをするよういいつけました。
また、ソウルフラワーはいざという時のために、ソルアスタに石板を手渡しました。
石板にはオイディプス神話が刻まれていました。

ソルアスタはホークアイとエキドナを伴って寺院を後にし、三人はまだら牛の町で宿をとりました。
三人は深夜までひとしきり晩餐を楽しみましたが、最後にはホークアイとエキドナが大喧嘩をしながら床につくことになりました。

翌朝、不機嫌なままのホークアイは昼過ぎに監視塔の最上階にまで一言も発しませんでした。
エキドナもエキドナで、朝から全く無言でした。



監視塔の最上階には昼間から艶やかな美女をはべらせるパノプティコンがいました。
パノプティコンは鳥肌のたつ蒼ざめた皮膚を纏い、こうもりの羽根を生やし、小振りな乳房を携え、怒り狂う男根を天に突き立てていました。


パノプティコンはソルアスタの姿を目視すると言いました。

「来たか、ソルアスタ。いや、アスタロートよ。おまえが持つ徴は裏返しだ。おまえも本当は、俺と同じだ。その二人の女をこっちに寄越せ。我々の本来の名は、『汝なすべし』。思い出せ、死の説教を」


ソルアスタはしばし黙考した後で、言葉を繋ぎました。

「わかった。それではまずそちらにエキドナを贈ろう」

そう言ってソルアスタはエキドナをパノプティコンの下へ向かわせました。
エキドナは恍惚とした表情で秘められた徴を開示し、パノプティコンはそこに迸る憤りを注ぎ込みました。

パノプティコンが完全に脱力した時、エキドナはパノプティコンの喉元を食い破り、体内にある猛毒の全てをパノプティコンの食道と肺に流し込みました。そしてホークアイが絶命の破魔矢を放ち、パノプティコンの眉間を撃ち抜いたのです。

どうっ、と崩れ落ちたパノプティコンの体は青白く燃え上がり、骨と灰だけになりました。
パノプティコンはカノープの骨壺とソルアスタの骨と灰を使って啓典の再契約をしようと思っていましたが、
それは自らの骨と灰を以て成就することとなりました。



啓典の再契約は、ソルアスタによって成されました。
監視塔の最上階、パノプティコンの玉座の脇に、カノープの骨壺が置かれていました。
ソルアスタはカノープの骨壺を抱えて、骨と灰になったカノープに涙を落としました。
そして骨壺の中に、パノプティコンの骨と灰を入れます。
ソルアスタは予め、ソウルフラワーから啓典の再契約についての素養を学んでいました。

啓典とは一体何なのか。
何故再契約をしなければならないのか。
何者との再契約なのか。

ソルアスタはそれらの謎を一身に引き受け、パノプティコンの骨と灰、カノープの骨壺を使いました。
骨と灰は対消滅の光を発しながら掻き消え、骨壺もまた砕け散りました。

数千年の長きに渡る旧契約が終わりを遂げ、
新しい数千年が、カノープの骨壺から生み落とされたのです。
啓典は更新されました。


疲れ果てた三人は監視塔の螺旋階段をゆっくりと降りて行きます。

螺旋階段を半分ほど降りた時、最上階でずしんと大きな音が響きました。
ギルグルです。ギルグルはパノプティコンがいなくなって所在無げな侍女達をぺろりと平らげました。
体の重くなったギルグルは全身を引きずってズルズルと螺旋階段に向かいます。

「匂うぞ、徴の匂いだ。待て、寄越せ」


ギルグルに気付いたソルアスタはソウルフラワーからもらった石板を使うことを決意しました。
とうとうギルグルが寸手の所に迫った時、ソルアスタはくるっと踵を返し、ギルグルの頭で思い切り石板を叩き割りました。
そしてもう一度、ギルグルに徴のなんたるかを解き明かしたのです。

ギルグルは猛然と苦しみだし、全身から毒汁を吹き上がらせました。
石板の衝撃で全ての毒気を抜かれたギルグルは、自らの中にも既に、誰にも盗まれることのない徴があることを悟りました。

文字通り「新生」したギルグルはとても穏やかで、聖母のように豊かな乳房をいくつも備えていました。
三人は大人しくなったギルグルの背に乗って、ペルディーダのいる辺境の村まで素晴らしい速さで移動することができました。
 



散文(批評随筆小説等) 啓典の記憶 Copyright 2012 2014-02-14 03:08:22
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