テンパラメンタル
みけねこ
それはある春の日の出来事だった。
私は通学の途中で、満開の桜並木の中を、花びらを拾いながら歩いていた。
飛び散る花弁はそれで一つの死骸だった。
小瓶に詰めると、次第に赤茶けて朽ちていった。
季節を越えて桜は乾いた一本の木になる。
機械仕掛けの春、土のにおい、坂道、校庭、あかるさ。
私はセーラー服を着た一人の少女だった。
重たい学生鞄の中の、花びらと蝶の死骸を詰めた硝子瓶を眺めながら、屋上でエリュアールを読んでいたかもしれない。
校舎のてっぺんはゆるやかで、哀しみとやさしさを身体じゅうで感じることができた。
風の匂いとコンクリートの感触と、硝子瓶越しに揺らぐ静かな青い空を見つめていた。
こういうセンチメンタルは宝物に似ていたけれど、宝物ではなかった。世界はきらめいていて、悪い気分がする訳がなかったのに、私はいつも、胸の隅に燻るぶっそうな胸騒ぎを哀しんでいたのだった。
「ねぇ?あなたさぼりなの?」
ふと、声をかけられた。透き通る硝子の反響音のような声だった。
「誰?」
振り返ると、リカコがいた。リカコは屋上の扉の前に立って、私を見つめていた。白くて華奢な体躯と、漆黒の瞳が、私のちっぽけな五感を奪った。
一瞬、春の風の匂いと、コンクリートの埃と、頼りないチャイムと、ビー玉をいちどきにまぜて、シャボン玉みたいにフウッっと飛ばしたような、繊細な風が吹いた。
そしてそれがリカコの正体だった。リカコは小鳥の声をしたそよ風だった。
「さぼりなら一緒に遊ぼうよ、ここで一緒に踊ろう、ねぇ、夜明けまで、星がくずれるまで」
リカコが私の腕に触れた。それは綿菓子の感触で、ふわふわして、私は瞠目した。
たちまち夕日が西に落ちて、黄昏に2人の影が長く伸びた。
オレンジ色の視界に、陽の光に染まらない繊細な洋菓子のリカコが、目を細めて笑っていた。
私はリカコの手を握って、ラズベリーソースみたいに、今にも滴り落ちそうなロゼピンクの小さな唇に触れた。リカコはそう、華奢でフラジャイルなレアチーズケーキだった。
口づけすると、私の身体じゅうの皮膚からピカピカした琥珀色のエネルギーが溢れ出てきた。それは私を私として存在させる、透明で穏やかな気持ちだったから、心の中にかたく沈んでいた鉛の石がどんどん溶け出して、こぼれて、小さな硝子片になって私の両目からちらちらと舞った。
リカコは綺麗な水の湧く泉だった。私も濁りなくせせらぐ、豊かな青い清流になっていった。
リカコは歌うようにささやいた。
「あなたは、わたしとはちがうけれど、わたしに似ているところがある。
あなたは硝子瓶に蝶の死骸をつめたのを、いつも鞄のなかに入れていて、
滅多に取り出さない。わたしはそんなことをしたことはないけど、
そういう気持ち、わかるから、
わたしはあなたに似ているといえるし、あなたはわたしに似ているといえる」
私ははっとして、視界を縁取っていた全ての景色がお腹にどすんとぶつかったような感覚に襲われた。それは突然で、ふいに喉が渇いて、足元がひび割れて、黒く大きな穴があいた。
あっ、と思った瞬間ひゅんと映像は途切れ、瞬きをするとそこは春の陽の差し込む、いつもの教室だった。
空は青く、雲を吹き散らして澄んでいた。
私は自分の席で教科書を広げていた。
しかめ面の教壇の教師と目が合って、バツが悪かった。
セピア色のさびしい午後に、開け放たれた窓から、木蓮の淡い香りのする風が吹き渡った。
夢?
私は世界のリズムから振り落とされて、今にも止まりそう。