野火
飯沼ふるい

夜は暗い
地平の涯まで
音の無い破砕が続いている

彼は農場の納屋の中で眠ろうとしていた
それが懲罰の為か
彼自身の性癖の為かは
今となっては分からないし
彼の履歴を辿るのは
有りもしない言葉の意味を
解こうとするのに似ている


納屋の隅に
萎びた蝿とがらんどうの玩具箱とが転げている
くすんだ赤い塗料は剥がれ
捻じれた口を開け
記憶の放たれたブリキの残骸
つまらないその箱は
そのつまらなさの為に
彼を無性に悲しくさせた

起き上がり
彼は
牛酪ナイフで脹脛を削ぐ
肉の裏をナイフの腹が滑る
血が吹く代わり
農場の外れで夜と佇む
老いた一木の松から
黒ずんだ野火が溶け出して
農場の荒れた地の上を
静かに嘗めていく

彼は削いだ肉と足跡を玩具箱へ収め
蓋を閉じる
蓋も容器も
柔らかく湾曲して
もとの形を拒んでいるから
完全には
閉じることが出来ない


火は納屋へも注がれる
土壁が燃え落ちる
鋤や鍬や唐棹が穏やかに倒される
玩具箱も血脈のうねりの中に消えていった
その緩やかな侵食を眺めていた

 眺めていた
 彼は

 新しい朝を思ったかも知れない
 幾度も訪れた町の街灯を思ったかも知れない
 そこですれ違った老人の皺垂れた手頸を思ったかも知れない

 消えていくものごとと
 それに伴う引き潮のような情緒とを
 少ない記憶から呼び起こし

 消えていくものごと
 そのものになろうとしている自分の為に
 彼は
 裏返ろうとしたかも知れない

彼の身体もまた
火の中へ潜ろうとしたその間際
彼が見たのは
火の明かりを吸い
蛍火のような光を帯びて乱れる雪の群像
淡い輝きの一つ一つに映り込んだ
やがて朽ちていく暗い地平
その背後に
ただあるだけの暗い夜

 暗い夜
 彼は

 消えていくものごと
 在り続けるものごと

 その差にあるものを
 彼は
 見つけられただろうか

軒先の小さく丸い氷柱が割れる
凛としたその音は
火に包まれていく彼の感じた
最後の優しさだった

納屋は燃え続け
燃える為の納屋になる
ありったけの怒濤は
誰に聞かれることもなく
 それは確かに無音とも言う
彼の身体をどこかに滅して
夜の深い秒針に紛れていく


そうして雪の積もった朝がくる
ほの朱い日差しが
澄み切った雪原を照らして描くのは
少年の鎖骨のような
微妙な陰影
この緩やかな傾斜と砕かれた写実の下で
焼け跡すら残さずに消えたものは
なんであったか
今となっては分からない


自由詩 野火 Copyright 飯沼ふるい 2013-05-11 15:00:37
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