足の裏のカタツムリ
茜井ことは

 わたしとカタツムリの初めての出会いは、わたしが幼稚園児のときだった。

 ある日、仲良しのマミちゃんの家に遊びに行くと「なぁなぁ、いいものみせてあげる」と、ぎっしりと土の詰まった虫かごの前に連れて行かれた。なんのこっちゃと覗いてみると、なにやら巻貝めいたものが埋まっているではないか。
「マミちゃん、これ、なぁに?」
「これ、カタツムリやでー」
 カタツムリ? あの、つの出せ、やり出せ、めだま出せ、で有名なカタツムリ? 雨の日のアジサイの葉を探さないと巡り会えないという噂のレアキャラ、カタツムリ?
 きょとんとするわたしを尻目にマミちゃんは、カタツムリを虫かごから取り出して「ほら、かわいいやろ?」とカタツムリをわたしの手に乗せてきた。
 カタツムリはぬめぬめした身体をわたしにこすりつけながら、ゆったりと前進し始めた。今にも折れそうな繊細な目玉が揺れている。
 もとから貝殻が好きだったわたしは、一気にそのロマンティックな外見をしたカタツムリに心を奪われてしまった。そして、マミちゃんの、「さいきん子どもがふえすぎたから、なんびきか、わけてあげるー」という一言にすっかり心ときめかせ、プツプツと穴を開けたパックに二匹のカタツムリをつめて、家路を急いだ。 

 家に帰ってカタツムリを早速自慢すると、母は卒倒せんばかりに驚いた。
「カタツムリを飼うって……。あんた、家には何もないのに! 虫かごなんて、あったっけ……」
 そうブツブツと小言をいいつつ、母は物置をしばらく漁った後、虫かごを取り出してきて
「土は用意できないから、とりあえずここに入れときなさい。餌はレタスでなんとかなるでしょ……」
 と、瞬く間にカタツムリの家を作ってくれた。わたしは、そんな母の苦労などお構いなしに、ろくにお礼も言わずカタツムリを虫かごの中に入れた。そして、その中を動き回るカタツムリを見つめながら、のんきに彼らとの生活を夢見ていたのである。

 わたしが譲り受けたカタツムリは茶色の貝殻を背負っていたのだが、ある日、白い貝殻を背負ったカタツムリが、彼らに仲間入りすることになった。わたしのカタツムリ・フィーバーに感化された弟が、雨の日に、アジサイの葉を点検してみたら、「まっしろのカタツムリがいたよ!」と喜び勇んで連れて帰ってきたのだ。母はきっと、心の中でため息をついていたに違いない。
 計三匹になったカタツムリは、土のない虫かごのなかをぬるぬると這い回って過ごしていた。特にわたしは弟の連れてきた白色のカタツムリがお気に入りだった。白い貝殻はさながらホワイトオパールのような輝きを持っていて、それは虹を中に閉じこめた雪のようだった。白いカタツムリの美しさに魅了されながら、わたしは弟と、寝そべって飽きもせず虫かごを眺めたり、時には散歩と称してカタツムリたちを外に連れ出し、誰がいちばん速く進むのか競争させたりして、楽しくカタツムリとの共同生活を楽しんでいた。
 しかし、そんな日々も、そう長くは続かなかったのである。

 カタツムリを飼い始めて一年は経ったころだろうか。気がつけばあんなにかわいらしく思えていたカタツムリが、わたしにとってはただの面倒くさい存在にしか感じられなくなっていた。特にわたしを悩ませていたのが週に一度の虫かご掃除だった。緑色をした糞やら、しなしなになって貼りついたレタスやら、謎の白いぷつぷつとした物体――このときは知らなかったが、これは卵だったのだ――を、虫かごから出したカタツムリたちが逃げ出さないように注意しながら、短時間で洗い流す。たったそれだけの作業が、もはやブームの去ったただのぬめぬめした貝殻を背負った物体でしかないカタツムリへ払う労力としては、大きすぎるように思えたのだ。白い貝殻のカタツムリを、オパールを背負った天使のように思っていた自分が、もはや理解不能であった。
 そうして、わたしのカタツムリへの愛情が目減りしていくだけ、虫かご掃除の頻度もまばらになっていき、水と餌をろくに与えられないカタツムリたちは、干からびて死んでいった。
 しかし、死したカタツムリを前にしてもなお、わたしは改心することなく、ただ家の近くにカタツムリを埋めては、罪悪感も一緒に葬ってしまっていた。

 そんな苛酷な環境で、仲間たちが続々とドロップアウトしていく中、最後まで生き残ったのが白色のカタツムリだった。しかし、彼にもとうとう最期の日は訪れた。
 久しぶりに虫かご掃除をしようと、殊勝なことを思い立ったのがいけなかったのだろうか。白色のカタツムリを中から出して、わたしはいそいそと虫かごをお風呂場に持ち込んだ。そして、鼻歌交じりにシャワーで虫かごを洗い流していたら、突然
「いやぁっ!」という母の悲鳴が聞こえた。
 何が起きたのか、慌ててお風呂場を飛び出していくと、母は青ざめた顔をして
「カタツムリ……まさかこんなところを歩いているなんて思ってなかったから……」
 と何やらブツブツ呟いている。そして、母がそっと、足をどけるとそこには、ヒビの入った白い巻貝が床に貼りついていた。
 言葉を失うとは正にこのことで、わたしと母は、しばらくその床に貼りついたカタツムリだったものを眺めることしかできなかった。数分間は経っただろうか、怒りとショックを抑えながらやっとの思いで母は
「……この子も、埋めてあげなさい」
と言った。わたしも無言でこくんと頷き、ティッシュペーパーにその残骸をそっと包んでは、今までのように家の周りの土を掘って、カタツムリを埋葬した。

 かくして、わたしのカタツムリとの生活は幕を閉じたのである。粉々になったオパールは、今もわたしの記憶の中で輝いている、などということはなく、もはやあの残骸の姿ですらわたしは正確に思い出せない。




散文(批評随筆小説等) 足の裏のカタツムリ Copyright 茜井ことは 2013-04-21 18:44:15
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