やさしい世界
まーつん

 時々、訳もなく泣きたくなる。

 今日がそんな日だった。目に映る何もかもが煩わしくて、それでいて、執拗にそれらに触れたがっている、もう一人の自分がいた。放っておいて欲しいのに、見捨てられたくない、そんな感じだ。

 こんな日は仕事に出ても黙りがちになる。きっかけはいつも些細なことだ。笑ってしまいたくなるような。でも、それが起きた時には少しも可笑しさは感じられず、ただただ、そう…寒々しく、恐ろしい感じ。寄りかかる背中を支えていた壁が、突然僕を食べようと、大きな口を開いたかのように。

 バイオリズムという奴なのだろうか。僕はとにかく気分屋だ。今日はよそよそしい態度で周りに壁を作っていた。ひどく孤独で、安らかな反面どこか不安で、誰かと談笑しているときも、お義理で笑みを浮かべていた。幻想の世界へと通じる洞窟の前で、中に入ろうかどうしようかと、逡巡している感じだ。洞窟の前では、現実世界の見知った人々が、樫の木のテーブルを囲んでパーティーをしていて、゛君もおいでよ゛と言わんばかりに、こちらに向かって手招きをしている。僕はそこに加わりたいと思う半面、薄暗い洞窟の奥へともぐりこんでしまいたいという強い衝動も感じている。相反する二つの思いが演じる、頭の中の綱引きが、僕の心を金縛りにさせる。そんな感じだ。

 僕に好意を寄せてくれている人がいる。多分、僕の勘違いでなければ(そうであったとしても驚かない。僕は自意識過剰なおっさんだ)。楽しい女の子だ。僕より十歳若く、生き生きしていて、明るく、今夜は、YouTubeにつなげたノートパソコンから流れる、アデルの曲に合わせて歌っていた。

 無邪気に笑い、緑のマルボロを吸い、なぜいつも怖い顔をしているのと僕に尋ねる。僕はそれに答える代わりに、自分の好きな曲を教える。台風が去った後の、生暖かい夜の風が吹く。雲の下を点滅しながら飛んでいく航空機を見上げながら、僕は自分が怯えていることを彼女に悟られなければいいと思う。楽しいことが怖いのだ。まるで浅瀬に出てきた深海魚のように、抑圧という名の檻の中から出てきた自分の心が、風船のようにポンと弾けてしまうのではないかという気がして。

 僕は1人で居るのが好きだ。そこに付きまとう寂しさが、僕を苦しめながらも、なにかとても不思議なやり方で、安らぎに似たものを与えてくれもするのだ。

 休日に歩く散歩道。陽射し照り返す川面の、穏やかな表情。追いつ抜かれつしながら群れを成して芝生の上を歩き回り、食べ物を探す雀の群れ。雲の動き。風の感触。僕は歩道に並行する植込みの前にかがみこんで、これはなんという雑草だったかと考える。その葉の形と、対を成す葉脈のパターン、茎の線、全体のシルエット、どうせわかりはしないのだが、帰ったら野草辞典でもめくってみようと考える。

 古本屋に立ち寄り、好きな漫画を探す。海辺に行き、砂浜の端に寝転がり、図書館で借りた本をめくる。何を期待しているのか、僕の周りの草をかさかさと揺らしながら、恐々と寄ってくる二、三羽の雀。

 時々欲望が講じると、部屋のカーテンを閉めて、ネットの中に若い女の身体を探して、かりそめの満足を得る。そんな自分に嫌悪を感じながらも、ただ同然で手に入る快楽で、なんとなくやり過ごしてしまう。

 何かが胸の内でざわめくと、ギターを弾いたり詩を書いたりする。余分な力を発散するために、街の周りを走る。体を柔らかくしようと、ケヤキの揺れる公園で、ストレッチをする。人の手にかけられたものを何も見たくない時は、川の欄干によりかかって、水鳥や魚を眺める。そして、目に見える全ての存在のうち、水以上に柔らかく、自由で、繊細なものは他にない。僕は疲れた時、そこに映る光や色の移ろいを眺めて楽しむ。晴れた日は輝き、曇りの日は影に沈む川面。

 あくびが出るほど穏やかで、一人っきりで、コップ一杯の水のように、何の匂いも足跡も残さず、過去へと染みとおっていく、無味無臭の時間。そんな生き方が体に染み付いている。

 このまんま、なんとなく生きて、なんとなく年取って、なんとなく死んでいくのだろうか。それならば、老人ホームのベッドの中で、五十年後に死のうと、明日、車に撥ねられて死のうと、なんの違いがあるのだろう?

 明日、僕は仕事が休みだ。
 明日、何が起こるのだろう。
 太陽が昇る以外に 鳥が歌う以外に 風が吹く以外に ?
 それらが素晴らしいことだというのなら、なぜ僕は、こんなにもシラケているのだろうか。

 結局、新しい場所へ続く扉というのは、自分の足で探し、自分の手で押し開ける以外にないということなのだろう。彼女は、どこかに行きたいと言った。山に登り、僕にスキーを習いたいと。僕は忙しいからといった。金がないとも言った。そう、僕はつまらない男である。でも本当は怯えているのだ。路傍の石をひっくり返した時、日差しの下で身もだえしながら土くれの中に濡れた身体を隠そうとする一匹のトカゲ、それが僕だ。行きつけのジャズ喫茶で、マスターとだべりながら好きなCDを高価なオーディオにかけてもらうのはいい。どこか西の方にぶらりと出かけて、古都の街並みを一人で歩きまわるのもいい。歓楽街の片隅にある薄暗い店で、掘り出し物のエロDVDを探すのもいい。要するにそれが僕という人間なのだから。
 だが、パリッとしたスキーウェアを着て、あのコとどこかの雪山を滑降するだの、こぎれいなブランドショップが立ち並ぶこじゃれた通りを二人で歩くなんてのは、なんだか怖気づいてしまう。それは楽しいというより、どこか楽しい振りを演じさせられているような居心地の悪さを感じる。今までの僕は、そうしたやり方で人生を謳歌する人々を、うらやましげに指を咥えてみている側の人間だった。モテるとかモテないとかの問題ではない。
 何が楽しいのか分からないのだ。だから最初から求めもしなかったが、それでいて、そうした日の当たる場所で羽を広げる人々から伝わってくる喜びの波動が、妬みにも似た思いを僕の胸の内に疼かせてもいた。それは池堀でじゃれ合う水鳥が立てた波紋が、むっつりと岸辺を囲んでいる石垣に当たって跳ね返る様をどこか連想させる。楽しくやっている連中が白鳥達、石垣の岩の一つになって、そんな彼らを眺めているのが僕、という構図。あんな風に楽しげに笑ってみたいと思いつつ、お前ら一体何が面白いんだ、という感じだ。

 矛盾しているだろうか。確かに、鏡に映る男の顔は、幸せな人間のそれではない。この顔をもっと和やかな表情で飾り、微笑みをウィンカーのように明滅させて、より広く、より刺激と奥行きのある、新しい人間関係の中をドライブするというような生き方も、あるいはできるのかもしれない。
 その気になれば、゛幸せ゛だとされている生き方を選択することが、この僕にさえ出来るのかもしれない。

 じゃあ、生き方のハンドルを切って、そんな道に入ってみるとするか…? ごつごつと石ころばかり転がる、舗装もされていないような、寂しい山道ばかり選ぶのはやめて…。もっと人通りがあり、開けていて、居並ぶ白亜の建物の窓から、人々が手に手に友情の旗を振り、七色の照明で照らされているような道を。
 読者にしてみれば、勝手にすればいいだろうってところだろうが。一人の男の懊悩なんて、実際、取るに足らないものだ。僕の人生が明日薔薇色になったからといって、世界は見向きもしないだろう。例えば僕が明日、あの子の手を取って、センチな昼メロのように、どこか遠いところに旅だったとしても、それは僕個人に起きた革命であって、世界にとっては身じろぎするほどの、むず痒ささも感じない出来事なのだ。まったく、シラケさせてくれるよな。でも、それが現実だ。

 明日、何が起こるのだろう。
 僕の心に、何が起こるのだろう。
 僕は、飛ぼうとするかもしれない。
 鳥の真似をするトカゲみたいに。
 それもいいだろう。
 それで、世界が傷つくわけではないのだから。


 僕を放っておいてくれること。
 何をしようと、何があろうと。

 それが世界の、優しさだ。


散文(批評随筆小説等) やさしい世界 Copyright まーつん 2013-04-07 14:02:38
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