小さな音だけがはっきりと聞こえている
ホロウ・シカエルボク




生きる術がもうないというなら
生きることなど考えずに生きりゃあいい
すべてを賭けたつもりでもどこか妥協があるように
すべてなくしたはずの時でもどこかに余りがあるものさ


路面電車のガチャつく音はもう二、三度で今日は最後
ぼんやりとディスプレイを眺めつづけて眠くなったら眠るだけ
夢じゃ毎晩奇妙な虫が現れて
動けない自分にじりじりとにじり寄って来る
「その虫はお前自身だ」
訳知り顔の貰いもののハードロックカフェのくまのぬいぐるみ
本棚の上で足を組んでこちらを見下ろしている


生きる術がもうないというなら
生きることなど考えずに生きりゃあいい
すべてを賭けたつもりでもどこか妥協があるように
すべてなくしたはずの時でもどこかに余りがあるものさ


血気盛んな人間の強い言葉に真実はひとつもない
そんな風に言えるのはそんな時代を自分も生きてきたからさ
受け止めてもらうことばかり考えて血走っていた
愚かな時代が恥ずかしくて仕方がない
「それでいまでは何があなたの真実なのか」
隣の空家の屋根に居る野良猫が静かに問いかける
おまえの誇る自由さがそれだとはおれは思わないよ


真夜中に息が止まるような意識の羅列が苦しみだというなら
それが無いものはのうのうとただのうのうと
間抜けな笑みを浮かべて眠っていられるだろうか、おれはそうは思わない、それは膿んでいるだけ、気付けないほどの奥底で、腫瘍のように膿んでいるだけ
「幸せをやたらと語るのはそれがなんだか少しも判っちゃいないからだ」
真夜中のメモにそうとだけ書いた
窓の外から眺めていた死神が鼻で笑って去ってった
脳味噌の中に手を突っ込んでぐちゃぐちゃにかき回して引っこ抜いた手に
こびりついてくるべとべとの脳漿をおれは詩と呼ぶんだ
ひたひたと床に落ちるそいつらの足音を
鼻孔にすっと差し込まれる細く長い針のような臭いを


空は雨の予感に顔を曇らせている、気が触れた女の歌が河原から聞こえてくる、この時間になるといつも
その女がいったいどこで生きているものなのかおれは知らない
もしもその歌がおれにだけ聞こえてくるようなものなら余計に知りようがない
狂人の歌は綺麗だと昔は考えていた、きっと
おれたちのようなものよりも純粋さに満ちていると
だけどそんなものは間違いなんだ、といまは思う
狂ったパーツを旋律にはめ込んでこそを歌と呼ぶのだから


寝床に染み込んだ消化出来ないままの夢の地層、一度踏み込んだらひどく咽こんだ、だからいまではそのままにしてある、理由なんかいるのかい、人間なんて愚かなものだぜ、生きる術がもうないのなら生きることなど考えずに生きりゃあいい、古い家屋に染みついた雨の軌道のように人生は続いていく、問題なのは、そう、どっちかに決めなきゃいけないっていうその態度さ、そんなものにはどんな意味も存在しないんだ、枕に頭をはめ込んで夢の中に現れた虫を出来る限り踏み潰した、やつらは指についてきた脳漿みたいにどろりとなってぬるぬると消えて行った、そうしたのはたぶんある種のこだわりを捨てたからだ、なにも居なくなった床の上に寝転んで夢の中で夢を見た、その夢のことはいまでは思い出せない、だけどなにか地面を舐めるようにうつ伏せで浮遊していた、そのことだけははっきりと覚えている


目がさえて眠れなくなったので明りをつけずに風呂に入った、薄暗い真夜中の風呂だ
髪を洗おうが身体を洗おうが性器を洗おうがそれはそれだと思えなかった
暗い影が浴室の高い窓の向こう側からこちらを窺っていた、まともな人間には決して立つことが出来ないような窓の向こうから
たとえばあいつを呼びこんで身体を綺麗に洗ってくれるよう頼んだら
おれは人生を失って浴槽に浮かぶだろうか
身震いしたけどそんな考えは余興に過ぎなかった
もしかしたら血かもしれない温かい水で全てを洗い流した、沈み込んだ浴槽からは秘密にされた時間の臭いがした、血のように温まってゆく身体、血のように…


生きもののすべては裸なのだろうか、と
真夜中の浴室にたちこめる湯気の中にそれだけを書いた




生きる術がもうないというなら
生きることなど考えずに生きりゃあいい
すべてを賭けたつもりでもどこか妥協があるように
すべてなくしたはずの時でもどこかに余りがあるものさ




自由詩 小さな音だけがはっきりと聞こえている Copyright ホロウ・シカエルボク 2013-02-11 22:48:19
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