背中を見せた夢
まーつん

 忘れたくない類の夢、というのがあって、今朝、目覚める前にも、そんな夢の1つを通り過ぎてきた。ちょうど窓の外に夜明けが忍び寄り、地の底から蒼い光が茫洋と浮かび上がってきた頃のこと。

…夢の中で…、

…僕はうつ伏していた。寝台の上…だが、竹か葦のような素材を編んで出来たものだったと思う。くたびれた白いランニングにトランクスという格好で、うっすらと汗をかいた体の筋肉には、心地よい疲れが染みこんでいた。何らかの肉体労働をした直後らしく、休息を取っている。背後に気配があり、どうやら親しい間柄の女性が、薄着姿で立っている。二人がいる部屋は、やはり竹か葦かを編み込んだすだれのようなもので四方を囲った、狭いが居心地のいい空間だった。

 彼女が何かを言った。少しいたずらっぽい声音で。正確にどんな言葉だったのかは思い出せないのだが、僕の知らない男から、うなじに口づけをされたの、というような内容だったと思う。僕は少しむっとしたものの、そのまま身じろぎもせずに、少し油じみた顔の顎先を寝台のまるい縁に押し付け、部屋の床…踏み固められた土の地肌だった…を見つめていた。それからどんな会話をし、どんな成り行きが作られたのかはわからないが、彼女は黒いペンで僕のうなじの所…首の付け根の当たり…に、印を付け始めた。その感触をまだ覚えている。どこか他人事のように無感覚な皮膚を揺らして、濡れたインクを干しつけてくるペン先の感覚。不思議と冷たさが感じられないのは、僕の感覚が麻痺しているせいだろう、という気がした。
 
 やがて彼女は僕の背中に自分の身体を重ねて、口づけをしてきた、そう、丁度ペン先で黒く塗りつぶしたあたりに。彼女は小柄だった…少なくとも僕よりは。この夢については、そのことを、やけに強く意識している。僕にとって、それは大切なことらしい。親しい女の身体が、常に自分のそれより、少し小ぶりであることが。

 彼女の身体の重さは、心地よく、その唇の感触は…言葉にするのが難しい。性的な興奮を喚起する一歩手前の親密さで、僕のうなじを柔らかく擦っていた。熱くもなく、冷たくもなく、そこに溺れてしまいたいような優しさを持っていながら、同時にそれを思いとどまらせるような警戒感を起こさせる巧みな動き。

 やがて、その動きが止まった。弛緩と緊張の間でバランスを取りながら僕の背中の上で蠢いていた彼女の身体が、不意に力なくのしかかってきた。面白いことに、その時でさえ、彼女の重さは心地よく、優しい柔らかさが感じられたのだった。僕は彼女の死をどこかで予感しながら、ゆっくりと反転しつつ体を起こし、彼女が寝台から転げ落ちる前に、その身体を捕まえた。

 予感は当たっていた。背中に口を開いた小さな赤黒い切り傷…まるで体積のないヒルか、黒く酸化した秋の枯葉が張り付いているようにも見える…刃物によるものだと、根拠もなしに確信した…が、細く、だがゆっくりと血溜まりを広げつつあった。
 
 僕は、なぜか後ろめたい気分になった。彼女の死が自分に起因すると…過去に言ったか、するかした何かが原因だという、そんな苦い悟りがあった。同時に、今、彼女の死に左程の痛みを覚えていない自分自身への後ろめたさも感じていた。

…そして目が覚めた…

 忘れたくないのは、この夢の居心地がとてもよかったこと。葦を編んだ簾の隙間から斜めに刺してくる、熟れた果汁のように濃厚な黄金色をした午後の陽光、日差しに暖められた湿度の高い空気が、じっとりと半裸の身体を包み込む、気だるい温もり、そして彼女の身体の、心地よい重さ。そしてあの、うなじへの口づけ。すべての感情が、ノボカインを注射された時の口中の肉のように、半ば麻痺していたせいで、彼女の肌への欲望も、彼女の死への悲嘆も、その感情が完全に目覚めきる前に、夢の中を流れる不規則な時間の波に押し流されてしまったこと。そして、諦観と無関心に薄められた、白けた味わいのカルピスのような後ろめたさ。

 なによりも悲しいことは、悲しめないことだった…それは、僕が手にしたものは、全て遠からず失われてしまう運命にあるのだと、初めからそう決めつけている気持ちがどこかにあったからだろう。その不甲斐無さ。人を心から愛せない(愛が、どんな行為であるかは謎なのだが)、誰かの存在に、自分の大切な何かを託せない…

 …その臆病さ。















散文(批評随筆小説等) 背中を見せた夢 Copyright まーつん 2013-02-11 14:40:45
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