『万物理論』とsex
佐々宝砂

もしかしたら私はFtMかもしれないと深刻に考えていた時期があった(当時FtMという言葉は一般的でなかった。私もそのころはこの言葉を知らなかった。知らなかったけれど悩みは深刻だった。FtMの意味がわかんない人はぐぐってくれ)。20歳くらいのころだ。男っぽい格好をしたくて、上から下から中まで男みたいにしてみた。トランクスを穿き、胸をサラシでつぶし、ウエストにタオルを巻き(幸か不幸か当時の私はウエストが細かった)、肩パットを入れて三つ揃いを着込み、髪はベリーショートにして、黒縁ロイド眼鏡をかけて、鏡をみたところ、ヲタクっぽくて貧相なガキ、それでも一応は少年ぽい姿に見える気がした。それで私はその格好で居酒屋にでかけた。しかしあっさりと私の異装はバレた。私は、マニッシュまたはボーイッシュな格好をしている女にしか見えなかったのである。けっこうショックだった。

何が私を女のように見せたのだろう。私はいろいろ考えた。スタイルだろうか。それは努力して女っぽくなくしているはずだ。ウエストを太くして胸をつぶした。腕や足の露出部分はほとんどない(細い腕や毛のない足を見せたら一目で女と判ってしまう)。身長は164cmだ。決して高くはないけど、私より背の低い男もいる。そういう問題ではなくて、立ち居振る舞いだろうか。でも私の行動パターンや態度はかなり男っぽいはずだ。足の組み方から歩き方まで研究したんだ。言葉遣いはもともとお上品とは言いかねるし一人称代名詞が「僕」か「俺」だから、そのままでいいと思う。それとも声だろうか。声をかえるのはむずかしい。でも、そのころ私の声域は、ソプラノからテノールくらいで、努力すれば常に低い声で喋ることができた。のどを鍛えていないのでもう高音は出ないが、低い声なら今も出る。もっとも、女にしては低い声という程度だ。男の声にしては高い。でも私より声の高い男なんてたくさんいる。なにがちがうんだ。なにが。な・に・が?

今は、多少、わかる。なにがちがうか、なんとなく、わかる。自認の問題なのだ。私は、「私は男だ!」と言い張ることができない。「私は女だ!」と言い張ることはできるが、なんとなく、自信がない。私の身体は確かに女であり、私はそれを自覚しているが、性自認と身体の問題はまた別だ。私は女でありたいと思ったことが(あまり)ないが、かといって男になりたいと思ったことも(あまり)ない。認めよう。私の性自認は男ではない。私はFtMではない。じゃあ私はなんなのだろう。私の身体は疑いなく女だ。しかし頭はどっちなのだ。私の性対象は両性だ。では私はいったいナニモノだ。まだ全然わからない。わからないまんま私は三十代半ばを過ぎてしまった。子どもを生んだら「私は女だ!」という自覚がふつふつ湧いてでたかもしれないが、私は不妊症である。毎月生理がくるので「ああ私の身体は女だなあ」と自覚はするものの、生理があがっちゃったら余計に自分の性別がわからなくなるだろう。いやむしろあがっちゃったらいいなあと思う。性別なんかわからなくてもいいじゃないか。

などなどと考えてきたところに最近、グレッグ・イーガンの『万物理論』を読んだ。小説としてのできばえとかSF的魅力とかについてなら、私以外の誰かがとっくにどこかで語っているだろうから、どういう小説か知りたい人はぐぐりなさい。私が話したいのは、『万物理論』内での性別の問題なんである。以下、いつもと違ってネタバレはしないので安心して読むように。

『万物理論』は、2055年という未来を舞台にしている。未来だから当然今より外科手術やなんかが進んでいるわけで、女の身体に生まれて男の身体になりたかったら今より簡単に完璧になれる。男の身体に生まれて「あたしの精神は女です…」と言う人がいたら、身体にあわせて精神の方を改造することもできる。身体の性を精神の性にあわせてもいいし、精神の性を身体の性にあわせてもいい。どっちの選択もできる。もちろん強要されるわけではない。どちらの方法を選ぶかは個人の自由だ。このふたつの方法の他にも、手段はたくさんある。手術で性別を完全に変更した人は、転女性(en-fem)または転男性(en-male)と呼ばれている。整形手術だけをして微妙な身体になっている人は、微化男性(imale)・微化女性(ifem)と言う。もともとの性を強調する人種もいて、その手の人種を、強化女性(ufem)・強化男性(umale)と呼ぶ。自分の性に何の変更も加えていない人は純(natural)。

これだけ性別があったら恋愛はややこしかろなあと思うのだが、グレッグ・イーガンは、さらに性別をややこしく(面白く)している。汎性(asex)というものがでてくるのですな。これは中性(asexual)とは違う。外科手術で、男らしさや女らしさを除去している。でも、性別がないわけではない。男かもしれないし女かもしれない。見た目ではどちらかわからないし、本人も言わない。恋人はいるかもしれないしいないかもしれない。恋人の性別はなんでもありだ。そして、公式なパスポートの性別欄には「汎」と記載する。この人種にとって、自分の性別は男でも女でもない、中性でも両性具有でもない、「汎」なのだ。本書の解説によれば、「汎」の原語はve、所有格はvis、目的格はver、男女を問わない三人称単数代名詞として辞書にも載っているそうだが、定着した訳語はまだないらしい。「汎」って訳語もいいとは思えないのだが、だからといっていい言葉はなかなか見つからないな。考えてみれば、日本語には、性別を問わない三人称代名詞がない。日本語は英語と違って人称代名詞抜きでも文章を書けるから、今のところ私はそれほど不便を感じないけれど、日本語には私に必要な言葉が足りないんだなと気付かされた。

もしも私が『万物理論』の小説世界に生きていたら、私はきっと汎性を選んだだろう。どうしたってそうしただろう。いま可能なら、すぐにだってそうしたいくらいだ。



散文(批評随筆小説等) 『万物理論』とsex Copyright 佐々宝砂 2004-12-22 17:59:51
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