根と血、うつほ、プレーローマ
るか

心に残る風景

根によって地に繋がっているような、血によって不可視の掟に縛りつけられているような、そんな感覚が、今にして思えば、20代の前半くらいまでは確かに、一種の生存感覚としてあったことは憶えているのだ。人の感情も言葉も、はっきりとしたリアリティを持って体験されていたし、世界は、街は、ずっと生気に溢れて、カラフルだったように、かすかな名残のように思いだせる。


たとえば、中上健次の小説作品を私は10代の頃心酔して読んでいたものだが、それは青春小説というよりも、何か暗い多層的な差別と複雑な血縁関係との織りなす私小説的な物語に共感をしていたというよりも、やはり、既にして再現不可能な、近代文学のエクリチュールとして、その文体と言葉のなかを脈打つポエジーとを呼吸するように読んでいたように思う。


中上健次の小説的営為を取り沙汰する場合に必ず避けては通れないのが、80年代を境とする、路地の消失、それに引き続く、ソ連の自壊による冷戦体制の終焉という世界史的「出来事」、そこにおける中上作品の質的な転換あるいは動揺といったことだろう。
この時期に、確かに失われたある種の意味性あるいはデイレクションがあり、それはいわゆる文学のいくつかのフレームを確実に押し流してしまった。


勿論、このフレームを、ロラン-バルトに倣って、"神話性"と呼ぶこともできる。


この時期以降の中上健次が取り上げていたテーマあるいはコンセプトとして、うつほ、というものがある。宇津保物語がリファレンスとされながら、うつほ=ほら、空虚、女陰、といった概念系列を問題にしていた訳である。
その、うつほ、の感覚はまさに路地の消失の結果であったろうことはきわめて見やすい訳だが、
そうした作家個人の主題論的な困難を遥かに超えて、うつほ、という現象は、2012年の現在をも深く規定している。それは吉本隆明による修辞的な現在、と明らかに並行した現象であり、
あえていうなら、ミクストリアリティ、オーギュメンテッドリアリティといったメディア環境の拡大、浮遊感や閉鎖性、ニーチェの流行といったトレンドに接続している。


私自身が、もはや遠いものと感じざるをえないあの、横溢する生の感覚。そこにあった根も血も、まさに時代のなかで、うつほ、とされているように、思えてくるのである。



★ところで聖書においては頻繁に、人が、器、に喩えられている。特に、空っぽであることが強調され、それが聖霊により満たされた状態、あるいは、満たされることを、プレーローマ、と呼んだりしているが、これはギリシア思想に、その発想の源流を遡ることが可能だろう。





散文(批評随筆小説等) 根と血、うつほ、プレーローマ Copyright るか 2012-08-27 22:36:12
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