日々の雑感
るか

世界が、たとえようもなく美しくかがやく時間がある。そんな時間のなかに心を浸して、陶然としていた記憶が。詩は、私が全く経験したことがなかったさまざまな事物の相貌を、風の感情を、人智の豊穣さを、私にたいし開示してやまなかった。そしてそれは、おそらく無上のある種の非情、残酷さと背中合わせだったように思える。白昼夢のなかへと自由に往来する子どものように、文字が奏でる音楽は、私を世界との濃密な交歓のなかへと招待して已まなかった。

 

自然は、幼い私の眼に、無限や永遠なものの生ける象徴のように感じられていた。それはある日、車窓から眺めていた岩肌や山深い木々のざわめきの中で、鳥肌立つような異様な、過剰な体験として訪れた感覚である。自然の完全さのなかで、自分が一人きりであって、しかも余りにもみすぼらしく、罪深い汚点のように思え、涙を流した。それは、ある種の宇宙的な孤独の体験の片鱗であったのかも知れなかった。思春期特有の、感傷的な精神であったのかもしれず、現在の病の兆候であったのかも知れない。離人症的な感覚が頻発する時期でもあった。

 

ニーチェ、永遠回帰の思想に触れた時にも、驚愕すべき体験に襲われ、昂奮して叫び出したことを覚えている。それは雪のなかの読書体験だった。思想が身体を落雷のように貫き、意識なり脳なりを宇宙的なものが溢れんばかりに広がるような、全く驚く他ない一種の感情経験だった。それは神秘体験とすらいいうるのかも知れなかった。子どもの頃は視覚的なイメージの構成力が、いまよりも強くあったかも知れない。

 

私には、世界も人々も余りにも秘密の契約によって隠されているように感じられるのだ。一人ひとりの精神の難解さは、私をたじろがせるに充分である。おそらく、精神の目的が、解明され理解されることにあるのではなく、互いに出会われて結び合わされるためにあるという事情が、理解を困難にせずにはおかないのだ。だから、モノローグは寂しい。そしてその寂しさの中にこそ、生の実感が脈打っているのだろう。
 


それについての適切な名辞を私は思いつかないので、それをα(アルパ)と仮に措いて名指してみたいと思います。それがある時は言葉と呼ばれたり、ポエジーと呼ばれたりしている。でもそういう呼び方には余りにも歴史的な意味の累積が纏わりついてしまっているので、中性的に、なかばノンサンスな仕草で、αと指示しておきたいのです。それは勿論、伝統的に、カミ、と崇められてきたものと何らかの関わりがあろうし、だが不遜の罪を犯したくないし、たぶん私たちが現在手にしているような方法ではロジカルに解明することは「永遠」に原理的に不可能であろうから、神とはいわない。



詩や映像や、アートだけの話ではなく、すべての労働、一切の人間的アクティビティ、それだけでなく天も地も、大空も海も、草原も砂漠も、昆虫も動物も、花も樹々も、万物がそれぞれの形で、目的として指し示している一点がある。凝視し切望している存在がある。それを変換して、私たちに感じられるようにする技術が、おそらくは詩だったのだろう。こうした理解が、神学的に何を意味しているのかを私は殆ど知らない。

 
 


散文(批評随筆小説等) 日々の雑感 Copyright るか 2012-08-26 20:19:37
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