ぼくむかし美術館に勤務してたことがあって、えと、その業務内容はといえばまず朝出勤して館内の蜘蛛の巣をとったり(ある通路の非常灯の下には小さな蜘蛛が毎日のよに巣を張っていた...)、それから学生、カップル、おばはん、外国人、社員旅行御一行様等々を相手に作品のテキトー解説(カタコトイングリッシュ)をしたり、、またクソどーでもいいことなのにどーしても教えてくれとせがむ方がいてそーいう方にボソッと作品の値段を耳打ちしたり、、ああ俺邪魔だろうな〜、目障りだろうな〜、、スイマセン、、とか思いつつ、ポカンと隅っこの方に突っ立って客を監視したり、、キップ切ったりトイレ清掃したり、、まぁ、主にそんなことをやっていたわけですが、、ある日、うっかり、犬を美術館の館内に侵入させてしまった。。
ちょうどぼくがキップ切りをしていた時に、大型犬を抱いたおじさんがやってきて、ま、いいか、とかおもってうっかりお通ししてしまったんですよ(案の定、犬は主人の手を離れ館内を駆け巡っていたらしい。。そして犬は、うん百億で落札されたという世界的名画のそばへ。。)
でも、不気味なことにぼくの上司はぼくのその大失態を何ひとつを咎めなかったんですよ。。そしてその上司は、のちにとある新潟の美術館の空調を止めてあろうことか大切な作品にカビを発生させてしまった(もちろんわざとなわけはないだろう)。。
たとえば国家、なんてものがある。
権力を手にしたものはどいつもこいつも国家を形作ってきた。
そして、しかし国家が国家で在り続けるためには、その歴史(記録)が必要なんだという(たとえそれがつくられたものであっても)。
近代的な美術館や博物館てのはそーいうものを、犬やカビから守るためのシステムでもあるんですね(それでも戦争や災害で失われてきたし、どうしたって誰もエントロピーの増大則からは逃れられないだろう)。ある記録が残されること、それが守られ広く未来に開かれていること。素晴らしいとおもう。ほんとうにそうおもう。
もちろんそれは美術だけに限らないし、たとえば"枕草子"から推測するに、昨今と比べても平安時代は暖かかったらしいよ、京都には亜熱帯性のシュロが生えていたらしいんだ、夏だナ、、とか、その点、江戸時代は寒かったみたいだね、火山の大噴火とかいろいろあったからね、、なんてこの世界の、この国の、日本列島の過去の様子が残された文献からわかったりもする。や、地層しらべたり氷しらべたり同位体測定とか、、ありますけど、それとはまた違った水平的な生活感あふれるソーゾー力とか働きますし。。
また、あらかじめ記録を前提としていない物語、さく者がどく者をまるで想定していない長大な絵物語、ヘンリー・ダーガーの"非現実の王国で"みたいなよーなものもありますが、あれはアパートの大家さんのおかげで"記録"として世に残ってしまったよーなもんだけれど、、とにかく権力によって、誰かの手によって、あるいはぐうぜんにしてもなんにしても、記録、現在まで残ってくれていてありがとう、と後世のぼくはおもうわけですね。
記録に残らないものに憧れながらも。記録されないということは、未来になんの約束もないということだ、それはあるいみで じゆう だ、と知りながらも。
ほんとは"記録"なんてものに向かわないほうがよほど正常なんじゃないかとさえおもってるけど、、デモ、、デモ、、モッタイナイ!とおもってしまうわけですよぼくのよな俗物は。。
はー。
前フリが長くなってしまた。。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=166344
で、ティシュー詩集はいいですよね。記録を前提としていないから。
もちろんそこに読み解くべきも字が印刷されている、という時点であるしゅの記録はされているとも言えるけれど、にもかかわらず記録への誘惑から滑り落ちてしまうという皮肉。なぜならそれは消える。ティシューは鼻をかんですぐにゴミ箱へと投げ捨てられる運命にある。
では、何も残らないのか?
それは違う。ティシューは?使われ?る。使用して、トイレに流されたり、鼻をかんだり、手渡されることで、つまり具体的な身体を通してティシューは体験され、そして消えてゆく。
それはとても美しいことだとおもうし、(ビンボー根性にまみれたぼくのよーな人間には)そーいう美のあり方があってもいいとおもうのだ。