推敲の無い文
番田 


好きか嫌いかでしか仕事ができないたちだった。特に見ているものを信じられたためしはない。僕は、そのままだったのかもしれない。今日もネットにアップするための文をつづっている。誰のことも信じていない。ディスプレイの向こうには、いつも、アメリカの風景が広がっている。僕も分厚い文化で守られたような国に生まれたかった。つまらないものでかためられた国の中ではなく。窓を開ければ街はとてもきれいだった。五反田に引っ越してきたのは正解だったと思う。五反田には住宅街は無いから、僕は一日中労働者でいられるのだ。いつも好きか嫌いかということでしか、誰かと話をできない僕。良いことなのか、悪いことなのかは感情の中でしか判断することはできなかった。それにしても、僕の思考回路は瞬間の中で完全に分断されている。今書いているこの文の内容のように。

マッキントッシュほど役に立たないコンピューターは無い。PCとは決してインテリアではないのだから。私のウィンドウズのノートパソコンは8年前のものだが、当時の最先端のデスクトップでさえMACは使い物にならない。最近の事務所の整理では3年ぐらい前に発売されていたモデルを廃棄したばかりだ。そんなことはどうでもいい。一人の人間が一日の中に意味を見いだすには何をしたらよいのだろう。この間、私は美術館に出かけてみたが、足が疲れただけだった。海外旅行に出かけてみても、浪費と疲れをため込むばかりだろう。それに、現地では乞食ばかりが歩き回っている。雑誌で見かける煌びやかなイメージなど、その国の一こまでしかないのだ。それに、洗脳された日本人がやたらと大通りを歩いていたりする。彼らの目の前には現実の風景はなく、理想とする風景の中をひたすらさまよっているようにも見える。



自由詩 推敲の無い文 Copyright 番田  2012-05-09 01:50:16
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