萩尾望都私論その4 十年目のスペースストリート
佐々宝砂

『11人いる!』(1975)の続編は、『東の地平・西の永遠』(1976)だということになっている。登場人物は同じだし、話は続いてるし、まあ間違いなく続編ではある。ではある。ではある。ではあるけどな、あたしゃ生粋のSFファンだからよ、『東の地平・西の永遠』がまあ面白いとしても、あれは認めん! 認めん! 『11人いる!』と『東の地平・西の永遠』ってな全然別な作品だと思うぞお。そもそもテーマがつながってないじゃん。『11人いる!』の正しい続編は(少なくとも私にとっては)『(タダとフロルの)スペースストリート』(1977)のみである。あれ、わたし、だいすき。

というのは前置き、の予定だが、どうなるかはわからん。今から1時間でヒヒョーらしきものを書くのだ私(なんでいつもそんなにギリギリなんだよおいら)。

『精霊狩り』(1971)以降『11人いる!』(1975)までの期間に、萩尾望都は重要作品をいくつも描いている。『ポーの一族』も『トーマの心臓』もこの時期に描かれたものだ。しかし私はランボーな人なので、この重要な2作品についてはあまり語らない(多少は触れる)。だっていろんな人がいろーんなこと言いまくってるじゃーん私が付け加えることはあんまりないさ。たとえば橋本治は、『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』の中で、『ポーの一族』『ポーチで少女が子犬と』『かたっぽのふるぐつ』などについて語り、「萩尾望都は時をとめて夢のなかに入った」と結論づけている。この時代の萩尾望都は確かに時をとめようとしていた。私はそれを否定しない。しかし時は流れるのだ。どうあがいたって流れるのである。

『(タダとフロルの)スペースストリート』という可愛い小品連作のなかで、フロルはダーナ・ドンブンブンのように明るく脳天気に破天荒に、恋人タダやアカデミーの学友たちを困らせまくる。フロルはいろいろ考えているようで、実はあんまりものごとを深く考えてはいない。まだ女になると決めたばかりで実際には女になっちゃいないのに、「何人こどもをつくろうか?」などとあほーなことをタダに言ってみたりする。まったく可愛い。可愛いがあほだ。二歳のチャシーの方が考え深いくらいだ。フロルは女になっていないどころか、少女ですらない(少女というのはやはり「女」なのだから)。フロルは男でも女でもある完全体、しかし女でも男でもないお子ちゃまなのである。タダとフロルの楽しいスペースストリートは、時をとどめていない限り続かない。フロルが本当に女となることを選択したとき、彼等の生活は根本的な変化を余儀なくされる。

根本的な変化とはいかなるものか? 萩尾望都は、タダとフロルの物語としては、その変化について描かなかった。だが、しつこいようだが時は流れる。時が流れる限り、変化は訪れる。どのように?

『(タダとフロルの)スペースストリート』と同時期に発表されたSFではない小品『十年目の毬絵』(1977.3)で、萩尾望都ははっきりと時の流れを描いた。このマンガは現実のドラマを描いているので、完全体や両性具有者は登場しない。もしかしたらけっこう普通にありそうな、三角関係の男・男・女の組み合わせの物語が描かれているのみである。三人で学生生活を送っていたとき、彼等はうつくしいサークルをつくりあげ、輝いていた。しかし彼等が二人と一人になったとき、その輝きは崩れ去る。彼等は三人でなくてはならなかったのだ。

なぜ? という問いに対する答は、まだ保留せざるを得ない。

なので当然、まだ続く。


散文(批評随筆小説等) 萩尾望都私論その4 十年目のスペースストリート Copyright 佐々宝砂 2004-12-04 12:05:48
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