プシュウ
佐々宝砂

1.プシュウ

プシュウと言った
聞き間違いではない
意味などわからないが
それは妻の口癖だったし
最近では
それしか口にしないほどだったから
それ自体は不思議でなかった
ただ目の色が尋常でなかった

妻は突然窓を開け
ベランダにスリッパを脱いで揃え
いちどだけこちらを振り返り
口を尖らせ
プシュウと言い
はらり


なぜ




なぜ落ちなくてはならなかった
幸せだったはずなのになぜ
プシュウとしか言わないとしても
それでも私は彼女を愛していた
だのになぜ

考えても仕方がないと人は言う
全くその通りなので
私は生活を続ける
生活を続けることは意外に容易く
私の生活からは
次第に妻の影が消えてゆく

プシュウ
という
声だけをここに残して




2.投函されなかった手紙

***さま

かなしくて、かなしくて、おたよりします
けれど、かなしい理由が言えません
ええ、わたしにもわからないのです

覚えていらっしゃるでしょうか
夏がくるたびに
三人で海に出かけました
あのひとは泳ぎがうまくなかったけれど
あなたは泳ぎが達者でしたね
わたしが溺れる真似をすると
あなたは即座にやってきた
わたしが笑って
口を尖らせて
プシュウと言うと
あなたも笑いました
そして言いました
でもきみは
もう他人の妖精に変身しちゃったよ
さらうわけにはいかないさ

ああ
あなたは覚えているのだと
わたしは思ったのでした

ただそれだけを言いたかったので
それでおたよりしたのかもしれません
かなしくなどないのかもしれません

この手紙は破り捨てましょう
そしてわたしは口を尖らせ
あのひとにプシュウと言う
あのひとにはわからない
わからない
あのひとはすっかり忘れてしまって
けれど
あのひとはやさしい
そしてたぶんわたしは
しあわせなのです
だからこれでおしまいにします

さようなら。




3.パン

なまぬるい日が射す教室で
淡く紅さした唇を突き出し
ぷしゅうどもなす・ですもりちか

彼女が呪文を唱えたとき
私たちはまだ三人ではなく

すてきでしょう
呪文を唱えて
男のひとは
山羊の脚したパンになるの
女のひとは
たぶん見えない妖精になるの
そうして不思議な植物園で
追っかけっこするのよ
もちろん笑いながら
楽しくね
永遠にね

永遠の追っかけっこはごめんだと
思ったものだったが
パンになるのは悪くなかった

私の脚は
確かに山羊の臭いを発散したが
パンのようにはあけすけでなく
見えない妖精を追いかけ続ける
甲斐性もなく

やがて私たちは三人になり
二人と一人になり

真夏の水辺で
彼女が携えていた本は
いつも同じ本で
私は
それを見るたびに
切なかった

口を尖らせて彼女が
プシュウ
と言うたびに
切なかった

まだ覚えているのだ
なお夢みているのだ


夜半
私は問う
私はなお夢みることができるか?
永遠の追っかけっこをする気になれるか?
答を出せないまま
ぷしゅうどもなす・ですもりちか

呪文を唱えれば
一人居の部屋のどこかで
死んだ女がそっと笑う気配



(中井英夫にオマージュ)


自由詩 プシュウ Copyright 佐々宝砂 2004-12-02 21:38:14
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