アオミドロ(散文詩)
そらの珊瑚

 見えなくてもそこのあるものは、実際のところ世の中にあふれている。見えなくても聴こえる。見えなくても、そこに存在する。決してオカルトではなく、純然たる事実なのだ。
 実家の家の前には、かつて小さな川が流れていた。立ち並ぶそれぞれの木造の日本家屋の前には、似たような灰色の石やコンクリート造りの橋がかかっていた。あの橋は家の敷地の一部だったのだろうか。とすると、川の空間の一部をそれぞれの家で所有していたことになる。川の水は、底のアオミドロが手に取るようにわかる穏やかな日もあれば(アオミドロというのは緑色の髪の毛のように長い藻である)台風の去った後などは増水して、子供心にも尋常ではないと思われる地面すれすれの高さに成長し、荒れ狂った濁流として流れていくのだった。
 時々道路で近所の子らとボール遊びに興じていると、手元を狂わせたボールは、時々その川に落ちてしまった。勝負は大きな道路までの数百メートルで、そこから先はずっと地面の蓋が続き、もうボールを取ることは叶わない。先回りをして川に降り、ゆるゆると流れてくるボールを待ち伏せして取れれば良し、そうでなければ、ボールは最終ゴールに子供の歓声を受けながら吸い込まれ、海まで流れていってしまい、もう二度と手には戻らなかった。結構スリリングな瞬間だった。私は幼くて記憶がないのだが(あったらトラウマになっていたかもしれない)免許を取ったばかりの母親が、幼い私を助手席に載せたまま、何をどう間違ったのか(初心者はいすれにしても何かの拍子にトチ狂うものであるが)車幅ぎりぎりの橋から落ちてしまったこともあるという。今年七十四歳になる母親はそれに懲りずに今も運転しているのだから、いろんな意味で、恐れ入る話である。
 増水した川に子供が落ちて亡くなったと噂が広まったこともあった。橋に腰かけていたのが仇となり、どういう訳か後ろ向きに落ちてしまったという。私はそれを聴いて二度と気軽に橋の縁に腰掛けることを止めた。背もたれのないそれの危うさに心底おびえた。生きている者は、死に対して永遠の初心者である者なのだ。日常はのんきそうに見せて、実は死をその手の内に隠し持っていることを知った。それが原因かどうかわからないが(単に市街化計画だったのだろうが)数年後橋は撤去され、川は道路の下に隠されてしまった。実家も建て替えられ、大きな柿の木は切られ、庭はつぶされ、駐車場になり、山羊を遊ばせた空き地には立派な七階建ての病院が建っている。整然として平坦な便利な街となった。いちいち自分専用の小さな橋を渡るという面倒な手続きを踏まずとも、行き来できるようになった。もうあの頃の風景は一見すると、どこにもない。
        ◇
 橋は外界と自分とを結ぶ、あるいは異界の上に渡された通路であったようである。
 見えなくてもそこにある。
 道路に耳を当てれば、音が聴こえることだろう。ボールを飲み込み、若い母親の運転する車を飲み込み、子供を飲み込み、今はもう陽のささない暗闇で、川の水が流れていく音が。
 それに付随して、アオミドロが奇妙な触手を手招きするようにゆらゆらと伸ばし、私を捕まえにくるのだ。



自由詩 アオミドロ(散文詩) Copyright そらの珊瑚 2012-01-28 07:19:50
notebook Home 戻る
この文書は以下の文書グループに登録されています。
散文詩