五十日目の日記
縞田みやぎ

その日の記録。

 宮城県沿岸部某市内,内陸部にある職場にいた。
 ちょうど子供らは午前中で解散。仕事区切りをねぎらう昼食会の担当になっていたので,予約してあった菓子と飲み物を店に受け取りに行って帰り,普段は置かない職場玄関前に車を置いていた。
 昼食会とその片付けも終わったのが1時。諸々の雑仕事が終わってデスクに帰還,お茶を入れて飲もうと給湯室に向かったのが2時半過ぎ。
 その「前」に何をやっていたのだろう,よく覚えていない。自分のカップにお茶は入っていなかったから,たぶん,給湯室にいた人と雑談をしながらお湯が沸くのを待っていたのだろうか。
 何人かの携帯が同時に鳴ると共に「ゴー」という地鳴りがし,大きい地震が来るのは直前にわかった。壁に咄嗟に手をつく。やがて本震が始まる。
 第一印象は「でかい」。それがすぐに「長い」になり,同僚たちが悲鳴をあげる。ガス台,ストーブの近くの同僚が飛びついて火を消す。「ちょっと,ちょっと,やだ。」「長いよ,長いよ。」「まだだ。まだだ。」「なんでまだ終わんないの。」立っていられずに次々としゃがみこむ。僕はちょうど給湯室の入り口に立ち,柱に手を突っ張りながら体を支える。みっしみっしという音は何によるものか。
 窓に目をやる。鉄筋の建物はガラスが割れたら崩れることは,前々の地震の時に聞いた。まだ割れない。視界の端にぶんぶん揺れるもの。非常出入り口の非常灯がブランコのように揺れている。「それ,危ない。」と指差すと,気づいた近くの同僚が,真下にしゃがみ込んでいた同僚の手を引く。
 果てないと思った揺れがおさまる。
 「何だったの。」と呆然としながら,人々が次々と立ち上がる。と,すぐに突き上げるような余震。しかも何度も続く。悲鳴があがり,人々は立ったりしゃがんだりを繰り返す。「これはだめだ。」と誰とも無く言う。電気はいつ消えたのか分からなかった。隣の事務室を覗くと,室長のデスクを巨大な書棚が押し潰していた。室長はテレビを見ようと席を立ったために間一髪難をのがれたらしい。ともあれ怪我人はいないようだ。
 10分ほど経ったか。廊下から「全員退避!」と叫ぶ声が聞こえた。出張から帰還中に地震に遭い,やっと到着した施設長だった。自分や入り口近くに居た同僚が口々に「退避です。出てください。」と復唱する。ほとんどが部屋を出た段階で,自分もすぐそこのデスクから外套とバッグだけをつかんで外へ。
 駐車場の空きスペースに,人々が呆然と立っている。ちょうど車が目の前にあった僕は,いざとなったら人を乗せられるよう,後部座席にあった荷物をラゲッジに詰め直し,手荷物を置く。大きな荷物を抱えていた同僚に「とりあえずここに置きな。」と声を掛け,カーディガン一枚でいた同僚に外套を貸す。
 雨がぱらつき始めた。防災無線がサイレンを鳴らす。大きな地震がありました。それは分かっている。
 「これはだめだ。」という呟き。
 携帯を取り出すが,相方,家族,ネット,どこにもつながらない。掛け続ける。
 上司がCDラジカセを持ってくるのが見えた。乾電池を詰め込むのを手伝う。「だーれ,最近のはなんだ,ずいぶん電池食うごだー。」「CDついてますからね,しょうがないんですよ。」そんなことをあえて笑って話しながらどんどん詰める。ラジオが付く。「マグニチュード8」「大津波警報」という単語が耳に飛び込んでくる。立ち尽くしている集団に向けて「マグニチュード8です。大津波警報出てます。」と叫んだ。わらわらと人々がラジオを聞きに集まってくる。
 しかし余震が収まらない。揺れる度に,建物から外に出る,また集まる,を繰り返す。
 「安否確認取れるかー。」と施設長が言う。そういえば僕は子供らの電話番号は,携帯の電話帳にパスワードをかけておいたのだった。一人ずつかけていくがやはりつながらない。いちいちパスワードを入力するのが面倒くさいなと思いながら,次々かける。合間に家族にもかける。つながらない。一度だけツイッターの画面が出た。「とりあえず生きてる。」とだけ書き込む。あとはもうツイッターの画面は出なかった。
 「これはだめだ。」とまた誰かが呟く。
 「鮎川浜で3.3mの津波を観測。」とラジオが言う。悲鳴と同時に,若干の安堵の表情。「それで済んだなら。」という気持ち。マグニチュードは9に訂正された。ラジオは「津波は何回も来ます。2回目3回目の方が大きい場合もあります。」と繰り返すが,なんとなく我々には「もう終わったのだ。」という気持ちがあった。女川,東松島,気仙沼,牡鹿,雄勝,市内沿岸部に自宅や実家がある同僚を囲む輪があちこちにできる。真っ青な顔。「きっと大丈夫だから。」と背中を撫でさする。
 防災担当の同僚が施設内を見回り,被害報告をする。大きな破損箇所は無いとのこと。
 雨が雪になり始めた。地震発生から30分が経過していた。施設長始め,幹部たちが集まって対策を討議している。普段であれば一斉送信メールなども使って子供らや不在職員の安否確認ができるが,すでに停電でネットが使用不可のため,それも不可能だ。今までの例から,携帯も丸一日つながらないことが予想される。連絡をとることに関しては,もう今日できることはほとんど無い。
 ラジオの内容が変わらない。もう本当に終わったのだろうか。
 このあたりで,自分は決定的なミスを犯す。子供らにかけるためにパスワードを入力していたのを,操作を間違え,「電話帳を削除する」ためにパスワードを入力してしまった。全て真っ白になる。血の気が引く。自分の職場と相方の電話番号しか,そらで言えない。ともあれ周囲は自分よりももっと動揺している。黙って相方に電話を掛け続けた。つながらない。
 施設長が全体を呼び集め,今後の方策を通知する。「幹部は全員このまま宿泊。月曜日は施設は休業,ただし明日は勤務日とする。全員出勤し,引き続き安否・安全確認作業を行う。各家庭のこともあるので,本時をもって勤務解除,安全に注意して帰るように。」
 ママさんたちが一番に帰る。この日は市内は卒業式がらみで午前授業が多く,家に子供がいる家庭が多い。預かっていた荷物を返したり,外套を返してもらったりし,「気を付けて。」と声を掛け合いながら別れる。「あなたの家の近くに自分の担当する子が住んでいる。余裕があったら探してほしい。きっと避難している。」と頼まれる。
 たぶんこれは津波が来ている。だとしたら,家族の中で一番危険な地域にいるのは,沿岸部に住んでいる自分だ。自分が大丈夫なのだから,きっと家族はみんな大丈夫だ。母が仕事で外回りをしていたら,妹が大学に行っていたら,と思うが,不安になると手が止まるので「きっと大丈夫だ。」と声に出して言う。
 余震の頻度がやや減ったようなので,2階にあるデスクへ。室内はそりゃもう酷いことになっているが,もう今はどうでもいい。自分のデスク周りを見て貴重品を忘れていないことを確認。昨年まで情報機器の管理を任されていたのでPC室もちらっと覗くが,PCが机から落ち盗難防止ケーブルでぶら下がっている。サーバが緊急電源に切り替わり警報が鳴り続けている。どうせこれは復旧まで時間がかかるので,データ保存を優先しサーバの電源を落とす。給湯室の冷蔵庫から水が漏れていた。近くにあった雑巾を敷き詰め,とりあえず水が流れないようにだけする。
 身支度をして周囲を見回すと,泊まることが決定した幹部のみが歩き回っている。対策本部を設置するらしい。このあたりでようやく,家に猫たちがいることに思い至る。薄情かもしれないが,この時まで全然思い出さなかった。きっと脅えているし,もし必要があればまた職場に戻るためにご飯を上げて来ねばならない。家に帰れば家族の電話番号も何かのメモや古い携帯のメモリからわかるかもしれない。帰らねば。
 職場を出たのは3時半頃だったか。もう外は吹雪となっていた。全ての信号はついていないし,マンホールというマンホールが盛り上がっている。場所によっては突き出している。どの方向に行くにも果てが見えない恐ろしいほどの渋滞。何はともあれ携帯を車内電源につないで充電する。相方にかける。つながらない。もともとエンジンの調子の悪い車であるのと,ガソリンは残り1メモリしかないのと。渋滞にはまっていたら,車そのものがだめになる。渋滞を可能なかぎり避け,多少回り道になってもと地元民の土地勘に頼って走り続ける。ラジオは仙台の被害を告げている。ちょっと待て仙台で津波ってどういうことだ,意味がわからない,三陸じゃないじゃないか。防災無線が何か叫んでいるので窓を開ける。「避難してください。」避難したいのはやまやまだちくしょう。というかまだ終わっていないのか。まだ来るのか。仙台ではなくここの被害はどうなんだ。
 何度も大きな余震があった。車がぼんぼんと跳ね上がる。意味がわからない。すばやくギアをパーキングに入れ,ハンドルにすがって耐える。おさまるのを待ってまた車を進める。繰り返す。帰らなくては。とにかく帰らなくては。
 普段は10分で走る道を1時間かかり,4時半ごろ,自宅に続く道の近くまでたどり着く。ここから自宅方面へは混雑が少ない。鉄道をまたぐ陸橋にかかった時に,初めて相方に電話がつながる。「無事?」「無事!」「電車がだめになったらしい。こちらは職場が非常電源使えるからここに今夜はいるよ。」「分かった。もし余裕があったら私の実家を見に行って。明日は出勤になったから行くね。」それだけ話したところで,異音と共に通話は切れた。
 陸橋を超えると運河がある。運河を渡る橋の手前,信号から2台目,トラックの後ろで止まった。この先も渋滞か?
 いや。何かがおかしい。
 何故,反対車線の車も橋の上で止まっていてこちらに進んで坂を降りてこないのか。もしかして,この車列はもう動かないのではないか。いやな予感に押されるように,トラックの左脇をすり抜けて橋の手前を左折する。あちらにも橋があったはずだ。トラックの脇に出た自分の目に飛び込んできたのは海だった。
 なんだこれは。
 運河ではない。これは海だ。全部海だ。通常であればきちんとおさまっている水が,普段より2mほども高い水位でもって水門も川岸も超えてあふれ出している。咄嗟にブレーキを踏む。目の前の道は,右手の運河からあふれ出した水が住宅地へ向けてどうどうと流れている。ほんの数秒車を停めたが,その間に,ガードレールの下を通っていた水がガードレールの下端に当たりしぶきを上げ始める。だめだ。ここにいてはいけない。目指そうとした橋はまだ水に飲まれていない。あそこまで行けば。
 道が運河側を上に斜めになっているので,左車線は水がより深い。思い切って右車線に入りガードレールぎりぎりまでに車を寄せる。あせるな。エンジンに水を入れてはだめだ。慎重にハンドルを切る。水に入る寸前で車の向きを変え,あとは左斜め前に向かって走ることで,エンジンに水が入らないようにする。ばばばばばばばと水が車体にはじけて押される。ほんの数秒のことがとんでもない長さに感じた。
 なんとか突破した。振り返らない。あれはだめだ。この橋も土手もだめだ。もう退路がない。だとしたら帰らねば。自宅はアパートの2階だからきっと何とかなる。途中の道はまだ冠水していないが,地震により,深く大きな穴がたくさん道路にあいている。慎重に避けながら走る。
 もう防災無線やサイレン,ありとあらゆる緊急車両のサイレンは音として意識できなかった。
 家の区画は,おそろしいほど静かだった。津波は来ていない。世帯数の多いアパートだが,車がいない。隣の住人が出てくる。もうみんな逃げたのだという。そりゃそうだ,ここは運河と河に挟まれた土地だ。運河があふれていたこと,道が塞がれてもう逃げ場がないことを告げる。隣の家は子供も父親も帰宅していないのだという。「お互いに猫たちもいるし,2階だし,家にいましょう。何かあったら声を掛けて。」と言い合い,自宅のドアを開ける。
 途端,ドアに寄りかかっていた荷物がなだれてくる。ああそういえば地震も酷かったのだっけ。入れない。体重をかけて押し戻す。何もかもが落ちている。いやもともとが散らかっているのだからしょうがない。CDと本の山が崩れてドアをふさぎ,居間に入れない。猫たちが不安に鳴く声が聞こえた。15センチほどのドアの隙間からぐりぐりと体を押し込み,スピーカーの上によじ登り,何とか居間に入る。落ちるものは全て落ちて,床が見えない。液晶テレビが落ちて配線でぶら下がっている。まあ,しょうがない。
 「ただいまあ。ただいまあ。にゃんたちただいまあ。」いつもの帰宅のあいさつをする。ほどなく,脅えながら,よるかとねむが出てくる。どこかで鈴の音がするので,きりも無事のようだ。よかった。手回し充電のラジオを掘り出す。くるくると充電し,ラジオをつける。車で聞いていたのとあまり内容がかわらない。喉が渇く。水は出ない。
 疲れた。
 猫たちにごはんをあげる。僕の顔を見て安心したようで,食べ始める。結構ずぶといなお前たち,と思いながら,ろうそくや古い携帯,手帳を探す。どれも見つからない。台所にちょっと足を踏み入れただけでけたたましくガラスと陶器の山が崩れる。割れるものは全て割れたようだ。これは後に,相方が帰って来てからにしよう。どうせ調理はできない。食器棚にかろうじて手が届いたので,中を見る。揺れで食器棚自体が歪んでしまったのだろう,棚板が全部落ちて中身が雪崩れている。中を探って,非常用のクリームサンドクラッカーを取り出す。
 冷蔵庫が40センチほども動いている。電子レンジが棚から落ちかけている。
 余震。
 相方と言えばと思い出して彼の部屋を覗く。天井までの書棚・CD棚が突っ張りが外れて倒れ,膝上ほどの洪水になっている。これは現場を保存して彼が帰ってきた時に見せてやろう。
 日が暮れてきた。ありとあらゆるサイレンがずっと聞こえているが,それはどこか遠く,静かだ,と思った。そういえば津波はもう収まったのだろうか。手回しラジオを首にかけ,財布と携帯,先ほどのクラッカーを持ち,外に出た。食べ物も水も無いので,近所の商店まで行って何か買えれば,と淡い期待もないではなかった。
 静かだ。かしゃんかしゃんと音がする方を見ると,屋根に上がり,くだけた瓦を放り投げている人がいる。どの家も電気はついていない。街灯もついていない。このラジオはライトもついていてよかったなと思う。
 商店はどれもやっていなかった。まちに人の気配がない。みんな逃げたのか。
 河の土手を見上げると,消防車がこちら岸に一台,向こう岸に一台とまっている。消防の人が数人,何をするともなく河を見ている。そちらに向かって歩いてみる。見咎められるかと思いきや,視線は向けられるものの何も言われない。橋のたもとまで行き,家の側に帰るように土手を歩いてみることにした。
 まだ完全に日は落ちていない。水位はやや多いくらいか。川岸の様子がおかしいのは,薄ぼんやりと見える中でも分かった。何故こんなところに船が。しかもボートではなく小型の漁船が三艘ほどひっくり返って折り重なっている。この瓦礫の山は何だ。木材の合間にちらちらとプラスチック製品の鮮やかな色が浮かび上がって見える。これはつまり津波の跡なのか。
 水面にもたくさんのゴミが浮かんでいるのが見えた。木っ端や松っ葉のような細かいゴミが集まってうねりながら,川下へ向かってゆったりと流れていく。ああそのまま流れていけばいい,とぼんやりと思う。自分の足音が聞こえる。
 と。ゴミの流れる速度が遅くなり,やがて止まる。なんだろう。ゴミだまりの一番下流側のあたりが,ぐうっと上に押し上げられる。水位がみるみる上がっていく。橋を振り返る。さっきまで橋のずっと下にあった水が,橋の下にかかりそうなほどに増えている。あれはもしかして波頭か。どんどん高くなっていく水の中に,大きなものが見える。あれは,冷蔵庫だ。
 まずい。逃げないと。
 小走りに土手を行く。時折振り返る。さきほどの冷蔵庫が川をさかのぼっていく。次に橋の下をくぐってきたのは,半分に折れた船だった。
 走った。
 家のすぐ裏の土手からの階段を駆け下り,そのままアパートへ。まだ自宅の周囲は乾いていたが,あの波はきっとここまで来るだろう。2階に駆け上がる。猫たちが怪訝な表情ながらも出迎えてくれる。
 どうしよう。逃げるか。
 逃げるならもうさっきだった。来た方の橋は水没したから,行くとしたら今の橋。しかしあの波は橋を超えるのじゃないか。無理だ,もう今からは突破できない。あの波がアパート裏の堤防を越えたらここまで波が来る。どうしよう。車は無理だ。
 余震。
 急にサイレンが耳に届く。
 大津波 警報が 発令 されて います 高台に 逃げて ください
 ずっと同じ声が聞こえている。
 大津波 警報が 発令 されて います 高台に 逃げて ください
 どうしよう。
 猫たちが不安げに足元をうろうろしている。お前たち一緒に行くか。行かないと。でもキャリーバッグもなだれた家財の下でもうわからない。一人で3匹を車に積み込めない。そもそもきりがおびえきっていてつかまらない。ごはんは。トイレは。水が来る車は無理だ。置いていくのか?おいていくのか?おいて一人で?どこへ?
 だめだ。間に合わない。
 余震。

 一緒にいるか。

 しんとした。

 外は相変わらずけたたましくサイレンが鳴っている。しんとして聞くと,警報,サイレン,救急車,消防車,パトカー,アナウンス,誰かの拡声器,何かがはじける音,ごーーーーーーというトンネルの中のような音。
 これが,津波なのかなあ。
 窓を開ける。いそくさいのかこげくさいのかあぶらくさいのかほこりっぽいのか,変なにおいがする。まちはみんな暗い。どこまでも暗い。雪はやんでいる。向かいの建物の向こうの空が赤い。火事か。濡れたものでも燃えるのか。それとも関係なく燃えているのか。ここまで見えるのはいったいどんな火だ。みんな燃えるのか。あの火はこっちまで来るのかなあ。
 見下ろした駐車場が暗い。水は来ているのかな。どうなんだろう。さっきの波からずいぶん時間がたったような気がするけど。どうなんだろう。車はもうだめなのかな。この建物はどうなるのかな。
 窓とカーテンを閉める。もう真っ暗だった。外套もオーバーズボンも身に付けたまま,バッグとラジオを抱えて布団に入る。不安だったのだろう,よるかがすぐにくっついてくる。ごめん,トイレの掃除は明日明るくなってからするね。ごめん,おねえちゃんなんにもならんな。ごめんね。ごめんね。
 ラジオはまだ警告ばかりを話していた。被害の状況がわかりません。このまま今日は,ずっとこうなのかな。
 疲れた。
 余震。
 ポケットからクリームサンドクラッカーを取り出して,布団に入ったまま,時間をかけて少しずつかじる。おまえたちのおいしいものじゃないんだよ。携帯も取り出して,念のため相方にかけてみる。コール音すら鳴らない。あとは電池を大事にするしかないな。
 ラジオの音が絞るように消えていく。ハンドルを回す。じおじおとダイナモの回る感触と抵抗感は,目が覚めて悪くない。音が帰ってくる。あちこちの地名が話される。北海道や関東でも人が死んだのか。岩手は,宮城は,福島は,どうなっているんだろうなあ。細かな地名が全然出ないなあ。鮎川は3.3mって,言っていたじゃないか。
 余震。
 音が消える。ハンドルを回す。
 外はずっと,ごーーーーーーと,トンネルの中だった。

 うつらうつらとしていたら,夜が明けた。
 よるかとねむが懐に入り込み,きりがたんすの上から覗き込んでいた。
 猫たちにごはんをあげる。カーテンを開ける。窓を開ける。

 海か。



 結論から言うと,僕の家の家も家財も皆無事だった。たまたまこの区画だけ周囲よりやや高かったのとアパートの敷地が高く作ってあったことで,車のタイヤの中ほどまで水が来ただけで済んだ。2階である我が家も,隣の家も無事だった。ただ敷地の外は腰までの水で「孤立」という奴だった。とかく自分の所属する人たちのところへ行かなくてはならないと思い,一瞬車を動かしたが,すぐに無理な深さになった。しょうがないので徒歩で水の中をこいで陸地を目指した。腰の高さより水が高くなると体が浮いてしまって歩けない(泳ぐような感じになる)ことを知った。水は臭くて冷たくて,ずっと歩いていると締め上げられるように痛苦しかった。にごってまるで中身の見えない油の浮いた汚水の底に瓦礫やガラスがたくさん散らばっていた。水から何とか出たくてブロック塀の上まで登ってみても,陸地としては続かず,また水の中に降りねばならなかった。倒れて浮いている木の電柱一本ですら,僕の腕力ではどかすことができなかった。なんとか土手までたどり着くと,やっと水から上がることができた。昨夜津波を見た河を見下ろす。水かさがまだまだ多い。川岸は家の中の全てをかき混ぜてひっくり返したような瓦礫の山。うつむいて水に伏している背中と,水から突き出した手とを見た。救命ボートが打ち上げられていた。てぶらの人々があてどなく土手をうろうろして呆然と水没したまちを眺めていた。つながれていない犬が歩いていた。犬の散歩をしている人がたくさんいた。携帯は圏外になっていた。河原の公園は土手とのつなぎ目からもぎとられて土地そのものが無くなっていた。道路に打ち上げられた魚がまだぱくぱくと口を開けていた。昨日水を突っ切った道路は酷く陥没して,ガードレールを乗り越えて瓦礫が道路に降り積もっていたが,水はもう引いていた。自分の前で停止したトラックはそのまま停止したままで運転席は空だった。道路にたくさんの車が押し流され積み重なっていた。運転席を覗き込む気にはならなかった。ありえない場所にまでボートが運ばれていた。ずぶぬれだったが,7キロ歩いて職場に行くうち,だんだん乾いた。水にやられていない土地は,ばかみたいに平和で,なんだかがっかりしてしまった。職場は水が来ず,無事だった。そのまま避難所の運営をした。避難所に配る食料は給食室から引っ張り出してきたものと近所の商店が届けてくれたホワイトデー用の菓子と。自分はおにぎりを一個だけもらった。いる間にも避難者がどんどん増えて,布団が足りないとのことだった。前日の昼食会で自分が飲み残した紅茶のペットボトルを持って帰った。帰る頃には水の中の人々はいなくなっていた。土手にはまだあてどなく人々が歩き回っていた。避難所になっている学校もまた,1階部分はすっかり水没していた。女川原発から歩いてきた人に会い,原発は大丈夫ですと言われた。余震でまた新しく壁が崩れていた。また水をこいで家に帰り,玄関で全裸になって新聞紙でがしがしと体を拭き,アルコールでがしがしと拭いた。着替えはまだ数日もちそうだ。持って帰った紅茶に砂糖をがんがん足し,少しずつなめた。明るいうちに家の中を少し片付けて退路だけは確保し,ついでに捜索してあめやちょっとした菓子を拾い集めた。でも何日分で割れば良いのかわからなかった。プロパンなのでガスだけは付くことを知った時は嬉しかった。もう一度外に出て,避難所になっている近所の学校にまでなんとか行き,頼まれていた,うちの近所に住んでいるという子を捜した。見つからなかった。つながれていない犬が歩いていた。消防署の避難者に紛れ,一口チョコレートを2つ貰った。帰宅し,また体をがしがし拭いた。トイレが流せないので気休めに芳香剤を置いた。フライパンにクッキングシートをしいて冷凍保存のご飯をいためて食べた。明るいうちに猫トイレを掃除した。外套をまた着こんでラジオと猫を抱いて布団にもぐりこんだ。とても喉が渇いて,とてもお腹がすいていた。
 明日はうちの布団を担いで職場に行こう。
 余震とサイレンは一日中,やむことがなかった。

 次の日からは,避難所運営と,子供らの安否確認に走り回る日々だった。携帯はずっと圏外だった。布団を担いで職場にまた歩いて行ったら腕がもげそうだった。ヘドロと瓦礫でまだ車が入り込めないまちに徒歩や自転車で強引に入り込んで,生きている人を探した。100個単位でおにぎりを握って手のひらを火傷した。何回か,河をさかのぼる小さな津波を見た。浸水した家の中で2日間起きられなくて今さっき自衛隊に救助されたというおばあちゃんが靴下だけで歩いていた。靴を貸したが,もう歩けないとへたりこんでしまったので,背負って大きな橋を渡った。背中で謝られ続けて「いいがらばあちゃん,しっかりつかまっでございよ。」とだけ言った。相方が,実家の父の運転で帰ってきてくれた。双方の実家の人々も無事だった。それからは2人で一緒に避難所運営と安否確認をした。何人も見つけた。子供らを助けてくれた人に,泣きながら頭を下げた。ヘドロのまちですれ違った,包まれて運ばれていくのは幼児の大きさだった。うちの子供らも,何人も,亡くなっていることを知った。知り合いの訃報が,毎日,毎日,入った。盗人や略奪や暴力を何度も,何度も,何度も見た。道路の脇で疲れ果てた年寄りが座り込んでもう立てないでいるのを,車が人を引っ掛けておいて逃げるのを,水産のトラックの積荷が腐って恐ろしい匂いの汁がぼたぼたと垂れるのを,小奇麗にしたボランティアたちが物珍しそうに記念写真を撮っていくのを,全て見てみぬふりをして通り過ぎた。あの日の火事で避難所ごと燃えた人たちがいた。波に飲まれた避難所がいくつもあった。保育所はお昼寝の時間だった。幼稚園はバスで帰る途中だった。気づかずについた足の傷が,汚水で膿んだ。体がみるみる薄くなって下着ががぼがぼになった。避難所はどこも浸水したままで泥だらけでぎゅうぎゅうで足の踏み場もなくて人が歩く廊下に年寄りの頭がありそして何も足りていなかった。うちの地区の水は結局ぜんぜん引かず,大型のポンプ車が水をパイプで汲みだした。電気が被害の小さい地区から少しずつ,少しずつ,信号,街灯,公共機関,一般家庭の順に回復していった。電気が帰ってきた箇所を見つけては,2人でうわあうわあと声を上げて喜んだ。嬉しくて涙が出ることを知った。泣いていたら通りすがりのおじさんが「お互い頑張りましょう!」と声を掛けていった。我が家も一週間くらい経ってからついた。テレビで初めて津波の映像を見て,これは自分は死んだと思われたのも無理がないと思った。被災地として挙げられるのは全て見知った地名だった。ぼんやりと眺めた。携帯が回復してネットに戻ってこられたのは3月20日。被害の小さい地区から少しずつ少しずつ店が開き始めた。何時間も並んでやっと食べ物や生活必需品を買った。ガソリンに8時間並んだ。店の側の人間ももれなく被災者だった。瓦礫は少しずつ片付けられて主要道路は通れるようになった。生活道路はうずたかく積み上げられた瓦礫,震災ごみが,余震のたびに崩れる。水は結局2週間くらいかかったので,それまでは毎日自転車で水をもらいに行った。洗えない代わりに消毒薬を何回もすりこんだ手足は荒れてぼろぼろと皮がむけた。水が出ても一週間くらいは,緑色に濁って砂が沈み,河のにおいと消毒薬のにおいでとても飲めなかったが,トイレが流せることと石鹸が使えること,酷いにおいのしていた衣服と体を洗えることがなにより嬉しかった。
 天罰と言われていたことを知った。



 あとはだいたい,ネットに帰って来ての通り。4月から避難所運営は市と自治組織にゆだねて自分は任務を解除され,以前の業務に戻りつつある。クライアントの被害が大きいので,通常運営は5月にならないと始まらない。今は被害の小さかった地域はだいぶ機能が回復し,並ばずとも物が買えるようになり,欠乏感は薄くなってきた。でもまだまだ訃報と別離が止まらない。かなしみはもっと終わらない。このまち,そんなに好きでなかった。不便だし,柄悪いし,変なにおいがするし。でも失ってしまって,ああ,本当に,自分はこのまちに住んでいたのだったのだなあと思う。ひともまちも変わってしまった。みんな泣き笑いと空元気でがんばってがんばってがんばってしょうがないしょうがないしょうがないと言いながら毎日を過ごしている。自分で動かねば生きていかれないから。酷い空気と酷い臭い,酷い風景,酷い思い出からの逃げ場はどこにもない。たくさんの水や寄せる波,引き潮で底が見えている水辺を見るのが怖い。積んである材木や,リサイクル用にブロックになっている古紙,製紙のロールも怖い。それらの水に浮く大きな物が人家や車に刺さったり,押し潰したりしているのをたくさん見たからだと思う。でもテレビに被災地が映ると,釘付けになる。知り合いが映らないか見知った場所が映らないかとじっくり見る。揺れや津波の動画には身震いがするが現実だからしょうがない。日のあるうちに身が空いたらまちの中のまだ行っていない地域に出向く。自分の被害が軽かったからと現地にいながら自らを外部化して終わったことにすることができない。それらの行動は周囲にはあまり健康的な様子には見えないらしく被災地外から「精神的に良くないからやめなよ。」と言われるがしょうがない。いろいろ「何かさせて」と言われたが,僕への支援物資は正直何もいらないからもっと足りないところへ自分の力で何とかやってほしい。その仕切りまでやる余裕は僕にはない。家族やごく親しい人にだけ,時々話をする。それが仕事なのだが,僕が会いに行くと笑う子がいて,ほっとする子がいてその家族がいて,それしかできない自分の無力を家に帰ってから転げまわって何時間も泣く。泣き終わったら自分のために丁寧にお茶をいれる。また次の日は口に食べ物を押し込んで仕事に行く。

 生き残ったのだから。
 生きていかねばならない。


散文(批評随筆小説等) 五十日目の日記 Copyright 縞田みやぎ 2011-04-29 00:30:21
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