朝を迎える
はるな

騒がしい夜が好きだが、静かな夜も好きだ。静かな朝はもっと好きだ。愛しているといってもいいくらいに。

きょう、ここには静かな朝が来た。完璧な朝だ。空はつるりとしていて、朱から藍を見事に染め上げている。あいだに白をはさんで。街灯は眠りに近づきながら、さいごの明るさを放りなげている。すこし離れたものものはみな影絵をつくり、懐に逃げ遅れた夜を匿っている。ほんの時折、迷ったように鳥が飛んでいく。一幅の絵を動かすようだ。

わたしが朝を迎えることは少ない。
ほとんどの場合、わたしの朝は夜とひとつながりで、独立したものでなく、だから朝と言うよりも夜のしっぽのよう。人々が動き出す気配を感じてはじめて、わたしは眠ることができる。
でもほんとうは、わたしだって、多くの人々のように朝を迎えたい。夜のおまけのようにではなくて。新しいものとして。昨日の続きではなくて、今日のはじまりとして。
そんなふうに、珍しく朝を迎えることができた日には、わたしは新しい今日について考えることができる。たいていが前向きで、あかるく、よろこばしい考えをだ。
わたしは今日を愛することができるだろう、とわたしは考える。一筋の邪念もなく、わたしはその考えに賛成する。物事を受け入れるときには、理由はすくない方がいい。ひとつもないくらいがいい。すんなりと、自分のからだの一部のように、膝のうすい肉をみるみたいに、受け入れるのがいい。静かな朝には、たくさんの物事をそんなふうに受け入れることができる。生理前の苛立った気分の日にさえ。

物事があるべき場所におさまっているという安心。
安心や、安定はわたしにとってはとても重要なことだ。
自分いる場所に安心できるということ。自分が自分であることの理由や意味を考えなくてもすむこと。
静かな朝は、なんというか、そういう雰囲気で満たされていると思う。わたしを安心させる雰囲気。だから、その朝はとても静かで、わたしの心も水面のように平静だ。

庭の雪柳は満開だ。ユスラウメも。ぼけの花もまだ咲いている。空気はまだつめたいが、ひと月前と比べるとずいぶんと水分を含んで感じる。通り沿いのレンギョウも咲きそろっている。まちきれない桜のいくつかはもう咲いてしまった。蕾はふくらんでどきどきしている。土が、木々が、草が、花が、コンクリートが、カーブミラーが、壁が、空が、色が、街のすべてが、あるべき場所におさまっている。そうして、そのあるがままのものもを、そこにあるものとして、わたしは受け入れることができる。許すでもなく、愛するでもなく、もちろん憎むでもなく、ただそれがそこにあることを知り、受け入れることができる。
そのときの、わたしがその場所たちに受け入れられているという、圧倒的な幸福感。ゆるぎなく、息がつまりそうに芳しく、目がくらむほどの、それでいて、自分のなかに自分がきちんとおさまっている静けさ。

ものごとすべてが完璧にそのものとして在る、そのひとつひとつの圧倒的な幸福感。


でもその幸福感は永遠には続かない。いつも。
ただそれは一瞬ではない。わたしの胸に幸福感の尾を残しながら、いつも少しずつ去っていく。穏やかな気持ちは、穏やかに去っていく。
いつ会えるかわからない、その幸福感を、静かな朝を、感じたくてわたしは生きているのかもしれない。幸福感の去り際に、ぼんやりとそう思う。それは、去っていくことを含めて、わたしがまた波打った現実へ引き戻される前提があることも含めて、しあわせなことだ。
たとえこの先このような朝を迎えることが無かったとしても、構わない。そして、それでもこれも現実だ。わたしは朝を所有することができない。それは、わたしが朝を失うことがないことも意味している。だから安心して、わたしは、突然くるその朝を、静かな朝を、幸福感を、さみしさを味わうことができる。
完璧な朝だ。

きょうも、そうして、朝を迎えた。


散文(批評随筆小説等) 朝を迎える Copyright はるな 2011-04-05 05:54:57
notebook Home 戻る