「欲望と記憶、死と再生」のためのノート(批評祭乗りおくれ作品かもしれません)
N.K.

 ことばは、内容(意味されるもの)が空虚になったと詩人たちに判断されて、ことば自体を問題にし始めた。ことばがそれ自体を問題にするのだから、意味されるものは一義的なものではなく、メタレベルのものになる。本来ならば他を指し示すためのものが、自己のみを指し示し、意味されるものを喪失した抽象的な世界が繰り広げられる。仮想空間と言っていいのかもしれない。
 戦後の歴史の上では、戦後詩には、戦争という記憶・指し示されるものがあった。おそらく死や再生というモチーフが共有されていた。戦後詩の登場以降は、それに拮抗しようとすれば、身近なものが戦争に拮抗すると歌うか、ことばが指し示されるものを欠いたまま世界(もしくはその代用物)となるしかなかった。いわば大文字のモチーフが成り立っていたのが、戦後詩であり、その後で詩を書こうとしている者にとっては、取るに足らない小さなモチーフしかないと思われるのが現状である。そうして、ことばはことばに内向していくことはある意味当然のことであったであろう。
 その現状を根底からひっくり返すと思われるのが、今回の大震災だと思われる。おそらく大文字のモチーフとして共有されるものだろう。おそらく戦争体験に拮抗するものとしての地位を容易に獲得することができるだろう。(こう書いていることに、未だ辛さを感じていることは、書き留めておく。)
 しかし、<拮抗させる>ことでは、<拮抗されたもの>は結局消費されるのみであることも容易に想像できると言わなければならない。戦後詩において戦争が抜き取られていくような過程を人は容易に指摘できるのではないだろうか。今回の震災においても類比はできてしまう。震災について一義的には真摯に扱ったものから、時を経て震災が抜き取られてしまうのではないか。要するに<拮抗させる>という方法自体が、問題にされる時なのだろうと思う。
 <拮抗させる>以外の方法を求めなければならないように思う。震災を大文字のモチーフとして食いつくしてはならない。食いつくすことは、自分が空虚になる愚を再び犯すだけだ。自分にできることは、<全体>ということなど考えないことだ。<統一>ということを意識しないことだ。矛盾しているように響くけれど、そうしてできた結果としての<全体>というものを私は信じる。
 詩人の共感する力、特に小さなものに共感する力、あるいはこういってよければ天邪鬼であることが、大文字の座へ何かを置こうとする意志に対して有効だと思える。たとえ、その帰結が、自家撞着におわる詩や表現であるにしても、この状況下で選択されたおそらく繊細なまなざしである。
 フォーラムを覗いてみると、詩人たちはもう何かを拮抗させる方法を取らないで、小さなものに対する共感やささやかなその後の日常の希望を歌い始めている。そうして、<拮抗させる>という方法に風穴をあける。詩人たちの天邪鬼であることが、そのまま<ずらし>となる。私は現代詩人たちに、この意味で希望を持っている。言ってしまえば、詩は詩が方法なのだ。何と幸せなことであろうか、詩人は詩人でありさえすればいいのだ。


散文(批評随筆小説等) 「欲望と記憶、死と再生」のためのノート(批評祭乗りおくれ作品かもしれません) Copyright N.K. 2011-03-28 23:43:17
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