※アメリカのライト・ヴァースの経緯については「ライト・ヴァース雑感2」をお読みください。→
https://po-m.com/forum/showdoc.php?did=215625
こちら、「ライト・ヴァース雑感」には、はじめてアメリカのライト・ヴァースを読んだ私の、初心者ならではの感想が書いてあります。
最近、ライト・ヴァースという詩の分野に興味があり、とはいえあんまり資料がなかったので、それについて読んだ本の感想を書こうと思います。読んだのは、『アメリカのライト・ヴァース』(西原克政著 ?港の人)と『現代詩手帖 特集ライト・ヴァース』(1979年思潮社)です。
ライト・ヴァースの定義そのものにはあんまり興味がなく(「疲れない詩」でいいじゃんと思って・・・)、ライトに対するハイ・ヴァース(ヘビー・ヴァース)側の態度ってどうなのかなーと思って。
『現代詩手帖』の方は、谷川俊太郎・新倉俊一・川崎洋の対談があり、どういうものがライト・ヴァースというんだろう、と話しをしています。その中で、新倉氏が言うには、イギリスの19世紀あたりに、ロマンティックな詩の時代があり、それと同時期に風俗詩としてライト・ヴァースが出てきたと。ロマンティックな誇張を揶揄するという反射作用なんだって。
谷川氏が言うには、ライト・ヴァースを書くにはある体制の中にいないと書けないんじゃないかと。現代詩人のほとんどは気持ちの上では体制外にいてスネたりヒガんだりしているから、軽くなりようがない、と。いつでも詩が社会とケンカしていて。だって。安定した社会に安住している人が書ける詩ってことかな。
で、お三方は日本の詩でこれがライト・ヴァースだと呼べるものがない、と言っています。まあ、1979年の頃のお話しです。
確かに、『アメリカのライト・ヴァース』を読んで、その中にある色々なアメリカのライト・ヴァースを読んだんですが、日本の詩とは何もかもが違う、という印象でした。つまり、押韻とか、字数とか、意味の多義性とか、日本語でやるとやぼったい感じになりかねないんだけど、英語だとおしゃれっぽくなる。また日本では詩ってものがわりと「重いもの」って思ってる人が多いから、詩を書けば社会にもの申す、とか自分の孤独感がどうのとか、恋を失くしたとか、重くなっちゃう。・・・軽さも意外に難しい。
軽いといえば例えばですね。この本の中に、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズという詩人の「あかいておしぐるま」というのがあります。
「The Red Wheelbarrow」
so much depends
upon
a red wheel
barrow
glazed with rain
water
beside the white
chickens
「あかいておしぐるま」
あまりにたくさんが
のっかる
あかいておしぐるま
のうえに
あまみずにきらきら
かがやき
かたわらにはしろい
にわとり
※1
・・・・ん?だから何?という感じの詩ですが、1語の上に3語が「のっかっている」構成、赤と白の対比、どうでもいいような日常のものを題材にする姿勢、あっさりした語り口調(アメリカ民主主義のあらわれらしい)、so much depends upon=「たくさんのものがのっかている」「とても大切である」という意味の多義性、glazed(ガラス質の上薬をかけた)という語の特別感、などなど、色々読みどころはあるようで、だけど、別に何かこれといったすごい主張があるわけでもなく・・・みたいな。
私の印象では、ライト・ヴァースは、あえてすごい主張をしない詩、でもちらりちらりと技をきかせてて、現代の、詩を好きな人たちをうならせる詩、っていう感じかなあ。
ウィリアム・カーロス・ウィリアムズという人はお医者さんで、生涯詩を書いてたらしいですが、もういっこ『現代詩手帖』にあって、こりゃいいな!と思いましたのを載せます↓
「This is Just to Say」
I have eaten
the plums
that were in
the icebox
and which
you were probably
saving
for breakfast
Forgive me
they were delicious
so sweet
and so cold
「あのちょっと」
ぼくは
アイスボックス
にあった桃
を食べてしまったよ
で それは
きっと君が
朝食のために
とっておいたんだろう
ごめんね
桃はうまく
すごく甘く
すごく冷たかったよ
※2
・・・youの桃を食べちゃった、というだけの詩なんですが、最後の連がすごくいいじゃないですか!
許してくれ
君は甘く
すごくうまく
すごくあたたかかったよ
と解釈してもいいくらいじゃないですか、ねえ。Forgive meとかいって、全然悪いと思ってませんよ、この男は。(あっ!今おもったけど、they were deliciousって言ってる。彼女たちは・・・ってことかも!?その場合、「彼女たちはとても冷ややかだったよ」だったりして。)
そして、このページを書いた鍵谷幸信氏によれば、ウィリアムズの詩は「例えばヨーロッパ詩の長年月にわたって培われてきた定形形式へのゆるぎない依存と確信、とくにソネットあるいは強弱五歩格などは、ここでは一顧だにされず斥けられている。」「こうしてウィリアムズによって、詩の言語圏は思いきり拡張され、伸長していったといえよう。」とあり、つまりは口語を詩に持ち込んだ代表的な人らしいです。
うーむ。だから、口語自由短歌のことをライト・ヴァースっていうのか。口語っていっても、会話形式ってわけでもなく、ほんとにメモ書き程度の話しかけな感じですよねー。
メモ書きが詩になっちゃうすごい技。を、使ってるのかな?この詩は?例えば、昔の詩歌に使われていたような美麗な語句は、それだけでキラキラしているから言葉に助けられる部分もある。けど、日常語だと、かなり結構気を使って書かないと、にこりともされない。(ウィリアムズの詩も、お上品じゃないからってんでイギリスでは長年見向きもされなかったらしい)難しいことを言ってない分、何で読者を引き止めるかという難しさがある・・・。ユーモアという要素も必要と言われてるらしいけど、ライト・ヴァースは要はある時代、ある社会のなかで、成熟し、洗練されたテクニックで作られた簡単な言葉で書かれた詩の一つってことなんじゃないでしょうか(大雑把)。
怒涛のテクニックのある詩を一つ。ロバート・フロストの「雪の降り積もる夕暮」
「Stopping by Woods on a Snowy Evening」
Whose woods these are I think I know.
His house is the village,though;
He will not see stopping here.
To watch his woods fill up with snow.
My little horse must think it queer
To stop without a farmhouse near
Between the wood and the frozen lake
The darkest evening of year.
He gives his harness bells a shake
To ask if there is some mistake.
The only other sound's the sweep
Of easy wind and downy flake.
The woods are lovely,dark,and deep,
But I have promises to keep,
And miles to go before I sleep,
And miles to go before I sleep.
「雪の降りつもる夕暮 森のそばに佇む」
この森が誰のものか おおよそわかる
彼の家は村にあるけれども
わたしがこんなところで立ち止まって
森が雪で覆われてゆくのを見ているとは思うまい
一年中でいちばん暗い夕暮
森と凍った湖のあいだで
近くに農家ひとつないのに立ち止まるのは
なにかおかしい わたしの子馬はそう思っている
どうかしたのかと問いかけるように
身体をぶるっと震わせ 鞍の鈴を鳴らす
ほかに聞こえるのは 吹き抜ける柔らかな風と
しんしんと降る雪の音だけ
森は美しく 暗く 深い
けれども わたしにはまだ約束がある
眠りにつく前に 何マイルもの道のりがある
眠りにつく前に 何マイルもの道のりがある
※3
この静謐な、人生ってものをしーん・・・。と感じさせるような詩は、アメリカ詩の名作中の名作として知られ、アンソロジーにも最多登場だそうです。すごいのは、英語で脚韻をそろえるのはとても難しいにもかかわらず、
「4行連のうち3行を押韻し、残りの1行が次の連の3行と押韻してゆく、1つのサイクルを持った形式で、最終連だけ、4行全て押韻するという、超難関のテクニックを要する類まれな作品である。」だそうです。確かに、どの連もおしりが3つとも同じ音だし!残りの1つは、次の3つになってるし!
The woods are lovely,dark,and deep,のところは、死は甘美で、暗く、深いって解釈していいんじゃないかと思います。でも、生きるという約束を守らないといけない、死ぬまでにはto go、行かなくちゃならない長い道のりがある、って。
ところで、この本を読むと、英語ってほんと意味が一つじゃないんだなーーーと思うし英語に慣れてないと、英語詩の面白さって絶対わからないし、英語詩の訳とか読み方って一つじゃつまらないんだな、ってことがよく分かります。翻訳者の苦労と幸福も伝わってくるし。おまけに、紙が昔懐かしわら半紙みたいな感じで、本自体がとても軽いんです。ライト・ヴァースなだけに?
この本の中で一番好きだなーと思ったのはこちら(今回引用ばっかりだな)。e.e.カミングズの『チューリップと煙突(1923年版)』「無垢の歌」の詩の1つです。
in Just-
spring when the world is mud-
luscious the little
lame balloonman
whistles far and wee
and eddieandbill come
running from marbles and
piracies and it's
spring
when the world is puddle-wonderful
the queer
old balloonman whistles
far and wee
and bettyandisabel come dancing
from hop-scotch and jump-rope and
it's
spring
and
the
goat-footed
balloonMan whistles
far
and
wee
まさに
はる せかいがあまい
どろんこでちいさな
あしのわるいふうせんうりが
ふえをふく かなたへ かぼそく
エディとビルがかけてくる
びーだまあそびもかいぞくごっこ
もやめて これこそ
はる
せかいがすてきなみずたまり
ふうがわりな
ふうせんうりのおじさんがふえをふく
かなたへ かぼそく
ベティとイザベルがおどりながらやってくる
いしけりあそびもなわとびもそっちのけ
これこそ
はる
なんだ
あの
やぎあしの
ふうせんうりが ふえをふく
かなたへ
かすかな
おとをたてて
※4
この詩、二種類あって、前作はもうちょい硬い感じなのですが、直した後の子どもっぽい感じの方が断然よいです。著者の訳もかなり上手いですが。
far/and/wee の繰り返しが音的になんとももの哀しいような、うっとりとするような、春って感じ。weeは風船売りの小さな笛の音とも取れるし、子どもの歓声「ワー」そのものを表記したともとれる多義性を持っているそうです。あとは、カミングスの先祖のスコットランド系の言葉、wee wee man(ちっちゃなちっちゃな男)にも通じているんだとか。へえ〜。
この詩の中でどういうテクニック(というかこだわり)が使われているのかは、本を読んで下さいです。
とにかく、案の定ライト・ヴァースは始めは認められてなかったけど、今は愛されてて、ちゃんと地位が確立されてるんだなって分かったし、ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ、ロバート・フロスト、e.e.カミングズ、この人達の詩に出会えただけでもよかったな。と思いました。
終わりです。
※1『アメリカのライト・ヴァース』ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ「あかいておしぐるま」を見る6つの方法
※2『現代詩手帖 特集ライト・ヴァース』ブローティガンのいる風景-詩を日常性に糊付けする-鍵谷幸信
※3『アメリカのライト・ヴァース』フロストの「雪降りつもる夕暮」再考
※4『アメリカのライト・ヴァース』ピアニストを撃つな カミングズについてのハミングズ