幽霊のひもの
岡部淳太郎

――わらべうた



空は晴れていました。それはもう、
実にみごとに晴れわたっていまし
た。僕(子供)は逆上がりができ
なくて、学校でみんなから笑われ
て、からかわれて、そのせいで淋
しくなっていました。家に帰る道
の途中に公園があって、公園だか
らあたりまえみたいに鉄棒があっ
て、そこを通ると学校で逆上がり
ができなかったことを思い出して
しまうから、いやだなあと思って
別の道を通って帰ろうかと思いま
した。思って思って思ってしまう
のが、たまらなくいやだったので
す。でもその道しか知らなかった

               し、道に迷って行方不明になると
               僕(子供)だけでなくお母さんも
               困るので、いつもの帰り道を通る
               しかなかったのです。そしてひと
               けのないあの公園の前を通ってち
               らっと鉄棒のある方を見ると、そ
               こに白いふとんのような、何だか
               薄っぺらいものがひっかかってい
               ました。それを見ると僕(子供)
               は思って思って思ってしまうこと
               を忘れて、何だろうあれはと思っ
               て近づいていったのでした。薄っ
               ぺらくて白いふとんみたいな布み
               たいなものは風に揺れて、地面に
               近いところからぽたぽたと水がし

たたり落ちていました。そっと手
をのばすと、いきなり風に吹かれ
でもしたのか、大きく揺れ動いた
ので、僕(子供)はびっくりして
手をひっこめました。すると、そ
の白くて薄っぺらいふとんみたい
なものがぐるっとねじれて、その
ねじれたところから、こんにちは
と声が聞こえてきたので、さらに
仰天して腰をぬかして座りこんで
しまいました。その白くて薄っぺ
らいものはさらにつづけて、こん
なことを言いました。私は幽霊だ
よ。驚かせてごめんよ。その声は
小さいお母さんのような女の人の

               ような声で、目も口も何もなくて
               ぜんぶまっ白なふとんみたいなも
               のなのに、なぜかその布のねじれ
               たところから、声が聞こえてくる
               のです。君はあの学校の逆上がり
               ができない男の子だねと、なおも
               それ(幽霊)は言いつづけます。
               こんな白くてぺらぺらの頼りない
               ものにまで、僕の失敗は知られて
               いるのかと思うと、また思って思
               って思ってしまう悪いくせが出て
               きそうになりましたが、相手が話
               しかけているので僕(子供)は立
               ち上がって、それ(幽霊)と話を
               してみようと思いました。君が幽

霊だって、冗談じゃないよ。いや、
本当なのだよ、幽霊は生きていた
時の姿を崩して、いかにもうらめ
しそうな格好で出てくるだけだと
思ったら、大間違いだよ。そうな
のかな。僕(子供)はただの小さ
な男の子でしかなくて幽霊のこと
なんてちっとも知らないから、何
となく納得したみたいにうなずい
て、言いました。ところで君は、
どうしてそんなに水をぽたぽた落
としているの。君の落とした水で
地面が泥んこになっているじゃな
いか。私はね、幽霊だから生きて
いた時にたまった水を乾かして、

               そうすることで完全に死ななけれ
               ばいけないんだよ。そんなものか
               ね。僕(子供)はやや大人びた口
               調で、小さなお母さんみたいな声
               のそれ(幽霊)に答えました。私
               はこうやって自分を乾かしながら、
               ひものみたいなものになってしま
               いたいんだよ。私が生きていた時
               の人間の姿を失って白いふとんみ
               たいな薄っぺらいものになれたか
               らには、あとはもう水をぽたぽた
               したたらせて、乾いてしまえばそ
               れで済むのだよ。こんなふうに空
               が晴れて、それはもう、実にみご
               とに晴れわたっている日は、絶好

のひもの日和というわけなのだよ。
私も昔は思って思って思ってしま
うくせがあって、そのせいで死に
きれずに淋しい幽霊になってしま
ったのだけど、もうだいじょうぶ。
完全に死に終るまで、もう少しさ。
そういえば私も君みたいな小さな
男の子を生んで、思って思って思
いながら育てて、しかったりほめ
たりしてきたものだよ。懐かしい
なあ。でも、こんな思い出もぜん
ぶ私の中に水としてたまっていっ
たから、その水を乾かしてしまえ
ば、思い出もなくなってしまうの
だけれど。それ(幽霊)はひとり

               で勝手にしゃべりつづけたので、
               僕(子供)はちょっとあきれて飽
               きてきてしまいました。ところで、
               君はどうして僕が逆上がりができ
               ないことを知っているの。君みた
               いな変に白くて薄っぺらいふとん
               みたいな幽霊にまでそんなことが
               知られているなんて、何だか気味
               が悪いよ。幽霊になると何でも見
               えてきてしまうものなのだよ。特
               にこんなふうに白いふとんみたい
               になってしまうと、なおさら何で
               も見えてくるようになるんだよ。
               でも、驚かせてごめんよ。小さい
               男の子である君にとっては、幽霊

のことなんか知るよしもないのだ
から、驚いてしまうのも無理はな
いね。それ(幽霊)はそんなふう
に言いながら、風に吹かれたみた
いに揺れ動きました。わかったよ。
僕(子供)はやっぱりわからない
ままでそう答えました。それから
それ(幽霊)はすっかり黙りこん
でしまって、もうただの白くて薄
っぺらいふとんみたいなものにし
か見えなくなってしまいました。
あいかわらずぽたぽたと水を落と
していましたが、もうだんだんと
ひものに近づいているようでした。
僕(子供)はあいかわらず思って

               思って思ってしまう中にいました
               が、その心もいつかひものになっ
               てゆくのかもしれないなと、思い
               ました。空は晴れていました。そ
               れはもう、実にみごとに晴れわた
               っていました。鉄棒の白くて薄い
               ふとんみたいなものがぶら下がっ
               ているところの地面は泥んこにな
               っていて、そこで靴を汚しながら、
               みんな淋しく大きなものになって
               ゆくんだなと、思いました。いつ
               か逆上がりができるようになった
               ら、その時のお母さんみたいに大
               きな空は、どんなふうに逆さまに
               見えるのだろうと、思いました。



(作者註)
子供の頃に夢想しながらも書くには至らなかった話から、
タイトルのみ抜き出して使用した。




(二〇一〇年五月)


自由詩 幽霊のひもの Copyright 岡部淳太郎 2010-06-11 05:21:40
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