ノスタルジア
草野春心
八月の市営プールが君のノスタルジア。
脚立みたいな正体不明の監視装置に鎮座する五十格好、
主婦を悩ます排水溝のぬめりに近似したプールサイド、
二十五メートルを往復している小型の人口ピラミッド、
何を為しているのか自分でもわかっていない不思議感、
ひとつのこらず君の、ノスタルジア。
太陽の裏側にひらく
あじさいの花のなかで、
つつましく五、六匹の
蝸牛が午睡を貪り、
君の父親がウィスキーを
吐いては飲み、
本当と嘘をひっくり返して遊んでいる。
擦り剥いたひざに
バンドエイドを貼ったこと、
塩素と汗と太陽と、
君のからだの拙い香りを
僕は、
どこかで見たことがある。
*
黒板世界にチョーク世界で文字世界を
描く
(夏世界の出来事世界さ、緑 緑 緑)
君世界の背中世界の内側世界が
揺れる
僕世界の心世界の愛世界が
きしむ
世界世界が世界世界である意味世界は
もう、
ない。
*
八月の喫煙ルームが僕のノスタルジア。
吸い込むばかりで吐き出さないメタリックグレー機器と、
吸い込んだり吐き出したり無駄の多いアンチエコな肺と、
いまここで火を火であることに無我夢中なライターの火、
何を為しているのか自分でもわかってはいない不思議感、
ひとつのこらず僕の、ノスタルジア。
むすんでひらいてを
ハミングする女が、
うすぐらい廊下を
ひたひた渡り来て、
僕の母親はもう
とうに亡いと言い、
嘘と本当をひっくり返して遊んでいる。
換気口に向かって
もくもくと吹き出す積乱雲、
出口のない真っ白な光のなかで
僕が不器用に君を思っているのを
君が、
どこかから見ていたのを知っている。
*
君の目に
海があふれている
君の耳を
潮風が抜けてゆく
君の口は
あの夏の貝殻
黒板にチョークで文字を描く
君の背中の内側が揺れる
僕の心の愛がきしむ
世界が世界である意味はもうない
からっぽな歌でつないだ
十代の約束
からっぽな愛でむすんだ
十代の約束
からっぽな空にきざんだ
十代の約束
からっぽな僕と君の
十代の約束
(おぼえてる?)
*
無限に続く太陽への螺旋階段を息切らして登り、
無限に続く八月への憧憬を息切らして振り払い、
僕たちがどっぷりと穢れを知ったとき、
だれかの性器から顔をひょこりと出す
どこか別の世界のための赤んぼう、
それが、僕たちのノスタルジア。
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太陽