大蛇と影を重ねて
ポッポ

   『大蛇と影を重ねて』

     *
 ――目が眩んでしまいました。私は、してはいけないことをしてしまったのです。
 そこで私は、欲望の中を飽きるまで楽しむことで未練を捨て去ろうとしている愚かさを許してもらおうと思い、あなたに、お願いをしにきました。
 私は欲望の果てを望んでいるのですから、まだ見こみのある人間だと思うのです。なので、今だけは許してください。お願いします。きっと今だけなのです。
 許すと言ってください……。


   ○変貌した景色

 前方に見ていた場面は、さらに奥から流れてきた別の場面に押され、僕のうしろにまわったらしい。
 鼓動がこれっぽっちも震わないような安らいだ時間、父と母が、僕が知る上で?もっとも?と呼べるような優しい表情をしていたが、もう二人は見えず、僕は次の場面に神と大蛇が争っているのを見た。
 初めての光景に、鼓動は突如――傘の手もとが竹とんぼを飛ばすときの要領でまわされ、傘布に乗った雨の滴をあたりへ撒き散らすようにして震いだす。振動によって、もぐっていた刃物が接触している箇所を傷つけはじめた。
 ――僕は胸の疼きを感じ、臆病な狂人になる――
 生まれたときからずっと自分の胸に突き刺さっているガラスの破片のようなものを抜き取ると、僕はわけもわからず、なにもないはずの空気になんども突き刺した。それを握る掌は傷つき、胸の疼きは徐々に大人しくなる……。
 ――争いは収まったか?――
 息を切らし、前のめりに倒れた僕は、首だけを動かして現在の場面を窺う――。すると、神は大蛇に巻きつかれた状態で死んでいた。
 でも僕は、息が整えばそのまま生きるのだった……。

     *
 ――悲劇的なストーリーを混ぜこまなければ幸福が強調されないのなら、想像力のない者へのプレゼントには悲劇的なものが欠かせない。
 私にはそのプレゼントが快い。
 ただし、それは幸福を期待しているからではない。私がプレゼントの入った箱を開けるのを見ている大蛇が、舌をピロピロと出し入れさせながら笑っている。それが私には可愛く思え、さらに、これまでにはなかった視点を窺おうとする好奇心をそそる絵になっていたからだ。


   ○うねる川を前にして

 そのイスは、なにもないところへ置かれていた。
 うしろには、刈り高が二センチ程度に統一されている静まった芝生があり、眼前には「なにを放りこもうとも、我々はそれを下流へ運ぶだけだ」と言って、うねっている川がある。
 ――僕はイスに座った――
 瞬間ごとに新しいものへ取り替えられるそのイスは、めったに形も座り心地も変えず、九割強の無駄を感じる。
 ――僕は川を見つめた――
 僕が流れの中に軽石のような意志を放りこめば、流れはなにも訴えてこないだろう。僕が一人、流れに沿って進んでいく先でなにかを思い、ほかにはどうすることもなく騒ぎたてるだけだ。
 でも、流れの中に碇を打つような意志を放りこめば、流れは僕にとって慌しい声を浴びせてくるだろう。流れは僕のそばを通り過ぎながら「あとから来る者は、かならずオマエを引きずりまわしてくれる」と言って脅していく。そうなれば、流れたちの世間話では僕の噂が絶えなくなる。
 あぁ、僕もいずれは流れたちに忘れ去られ、どこかの窪みに溜まったカスとして少しずつ形を崩し、小さくなりながら、どの流れの記憶にもない僕になってしまうのだろうか……?
 イスごとうしろに倒れると、眼前の川から水気を吸っていた芝生が僕の身体を湿らせ、気持ち悪い。このまま時間を過ごしていると、神経がすり減っていく。
 ――この程度の場所で削り取られていくのは無意味だ――
 身体を起こした僕は飛んでいた蚊を握り潰し、そいつを餌にして以前に見た大蛇を誘き寄せた。
 潰れた蚊は、僕の内部に設置されている?出来事を見る通路?を進み、その後?出来事を感じる部屋?の奥へ吸いこまれる手前で、濁った水の渦に巻かれながら姿を消そうとしている。
 すると大蛇が首を伸ばし、死骸にパクついた。死骸は渦に引きちぎられ、半分は部屋の中に、もう半分は大蛇に取りこまれたらしい。
 蚊の死骸を濁った水とともに体内へ取り入れた大蛇は、口を大きく開け、身をよじらせながらクカカカカという声が聞こえてきそうな表情をしている。それは間違いなく、悦んでいる様子だった。
 そのあと、大蛇は咳きこむような症状を見せてから、僕を守るようにして巻きついてくる。――僕はそのパートナーに?ヒレンクター?という名を与えた。それは以前に聞いたことのある、どこかの国の神話に登場する大蛇の名だ。
 今の僕は、眼前のうねる川をちっとも恐れてはいない。


     *
 ――ある画家が記憶を語る――
 気が触れたらしい私は、焦げついた墨の色の奥へ進むように両手で床を漁り、?怒りを開放した?と言うほかはない声を出しながら、仰向けになるようにして勢いよく身体を放った。――あのとき神の背中の向こうから、私を窺おうとしている大蛇と目が合ったことが忘れられない。
 それからの私は、これまでになかった感覚、まるで感情の小数点以下までも正確に算出するような力を得ていたのだ。
 あれは、さまざまな感情に建った柱の陰を透視するような力だった。


   ○意外な悦び

 僕はピアノを弾いていた。
 不思議だ、これまでとは違う。これは誰の曲でもない……。わがままな気分へ外部からはなにも干渉させず、感覚の指示するままに弾き、記憶にはないほどの快感を味わっている……。
 これまでは譜面を見ながら誰かの曲をそのまま弾いていたが、今の演奏は、これまでにも今後にもなさそうな、事実として?今ここにしかない演奏?だった。
 弾き終えると、膝の上に両手を置き、悦びで身体を小刻みに揺らしながらあの光景を思いだす。――ヒレンクターが神に巻きつき、神を絞め殺したあの姿。あれを見てからの僕は、自分の中に、これまでになかった感覚が芽生えていることに気づいた。
 神を呑みこまんとする大口を開いたヒレンクターと、怒りの表情を絶命した先にまで持っていった神。それらが重なり合った形、色、なによりもゾクゾクする雰囲気、それを味わってからの僕は、閃きのコツといったものを感覚で理解したような気がしている。
 今、以前なら見向きもしなかったところに快感が潜んでいることを知った。もう、動きのない一枚の絵でかまわない。それがつまらなければ、その絵に穴を開け、向こうの景色に違うものを見つけるだけだ。
 今日は誰かの旋律には頼らない。今日は、僕が?なにか?をした素晴らしい日なのだから――。
 あぁ、気分が良い僕の表情を見たヒレンクターは、舌をピロピロさせて嬉しそうだ。そんなオマエを見ていると、また新たな表現を求め、僕の指は鍵盤を這う。


   ○眩しさに見た少年

 眩しい。
 僕は片手を目の上に当て、飛びこんでくる光を遮るように、薄っすらした場面をなんとか目視した。
 いくらか眩しさに慣れると、十歳くらいの少年が、大人の雰囲気をした男と女から優しく声をかけられているのが見えてくる。でも、三人の顔だちはハッキリしない。
「恐れることはない、大丈夫だ。昔、さんざん恐れながら私は行っている。確認済みだ。だからキミも行きなさい」
「立派な人ってね、どんなに悪い状況でも逆転して、幸せになれる人のことよ。勝つ人じゃなくて、結果として幸せになれる人のことなのよ」
 男と女から順にそう言われてうなずいた少年は、ほがらかな笑顔で走りだす。そこで、僕はようやく少年の顔を確認できた。何者かは思いだせないが、どこかで見たことのあるような、懐かしさを想わせられる顔……。それに、少年に話しかけていた二人の声にも懐かしさを……。
 少年は男と女から遠く離れ、さらに光の濃い向こうへと、元気よく夢中で走っている。見ていた僕は必死になって少年を追いかけはじめた。理由はわからない。?とにかく少年を捕まえなければならない?と思いこんでいる。……あの先にある光へ、少年が完全に融けこんでしまう前に……。
 自分がどんな顔をして追いかけているのかはわからないが、いっそう目には厳しくなる光に顔を歪めて追いかけた。少年は追ってくる僕に気づいたらしい。こっちへ振り向くと笑顔を閉じ、次は脅えた顔を開く。
 僕が少年を捕まえるのに手こずっていると、僕にピッタリついていたヒレンクターが少年の足に飛びかかって噛みつき、少年を転ばせることに成功した。
 少年は足を噛まれた痛みと、転んで負った痛みに気を取られていたようだが、うつ伏せになった自分の背後のすぐそばで息を荒げる僕を再認識したのか、痛み以上に避けたい怖さにハッとした様子で、顔と身体をこちらへ向ける。
 僕は少年の頬を殴った。倒れている少年の上にまたがり、なんども、なんども……。
 少年は泣きながら「どうして、どうして」と震えを伴ってつぶやく。それを見ていたヒレンクターの目の鋭さと、軽く開いた口は、望んでいた光景に?してやったり?という様子だ。
 気が済んだ僕が息を荒げたまま立ちあがり、引きつけを起こして倒れている少年を見おろしていると、ヒレンクターは地面にこぼれている少年の涙を舐めはじめる。少年は自分がこぼした涙をすするヒレンクターを間近に見ると、また「どうして、どうして……」と、かろうじて言葉になっている声で震えながらつぶやいた。なぜか、少年から新しい涙はこぼれてこない……。
 ヒレンクターは滴のすべてを舐め終えると、僕の顔を見て喉を鳴らしはじめる。ヒュルルルルという音を出し、気分の良いことを僕に伝えているようだ。
 ――その後、僕は自室のベッドの上で目を覚ました――
 身体を起こし、ベッドの下で寝ているヒレンクターを見ながら夢のことを思う。
 あの少年……ヒレンクターが見えていたな……。どうしてだろう? こいつは僕にしか見えないものなのに……。
 ……もしかして、追いかけているときは僕に怖れたのではなく、ヒレンクターに対してだけ怖れたのか……?
 ヒレンクターはハッと目を覚まし、様子がおかしい。
 蚊の死骸を飲みこんだときにも起こった咳きこむような症状が以前よりも長く、強く続き、三十秒ほど苦しんでいた。やがて調子を取り戻すと、ヒレンクターはベッドの上の僕に寄り添い、舌をピロピロさせる。まるで次の獲物に期待するかのように――。

 僕はヒレンクターの様子がおかしいとき、なぜか、出どころが不明な寂しさを感じていたのだった……


   ○誘き寄せて落とす快感

 たまたま前を通った地元の市民会館の壁に、それを宣伝する紙が貼られていたことで、ピアノの発表会がその市民会館で行われていることを知る。
 僕は五歳のころからピアノを弾いているが、ピアノ教室に通うことは十二歳でやめ、それ以降、十七歳になる現在までは自室のアップライトピアノを使って一人で練習していた。
 僕は会場に入り、誰かの演奏を聴きながら嘲笑する。
 そうした時間がしばらく過ぎ、すべてのプログラムが終了すると、会場の席からまばらに散っていく人々が目につくようになった。自分の演奏に納得している人や納得できない人、誰かの演奏を批判する人など、予定が済んだあとのある種のくつろぎの時間に、僕は鍵盤蓋も屋根も開かれているピアノが置かれた舞台へ身体を乗りあげる。
 僕がピアノ椅子に座り、鍵盤に指を載せようとしたとき、舞台袖にいた発表会の関係者らしき男がそれに気づいたらしい。僕の行動が気に障ったのか、疑問を持ったような表情で僕のほうへ近づいてくる。でも、僕はピアノを弾きはじめた。
 その場にいた人々は、今日はもうその場で鳴るはずのないピアノの音に驚いたらしくて、ほぼ全員が舞台を見ている。それを横目で確認した僕は、顔には出さず、自分の内面にしか現れない仕様で嘲笑した。僕に近づこうとしていた男は、途中で足を止めている。
 このとき、僕は表現した。誰の曲でもなく、ジャンルのない、事実として?今ここにしかない演奏?を――。
 会場の人々は、この演奏を不思議そうな表情で聴いている。それは?うまい?といった印象ではない。なにか普通ではない感覚に対し、不思議さと、なんらかの魅力に惹かれて舞台を眺めている。――横目で人々を確認する僕は、そう判断した。
 ヒレンクターは僕に巻きつき、鍵盤の上を睨んでいる。
 僕は――ここだろ? 次はここだ。このタイミング、この強さで。もちろんわかっている、ここで一瞬ずらすんだろ? これが現在のもっともたる快感だ――というふうに、神経を悦ばせながら瞬間ごとの閃きを味わっていた。
 見惚れるようについてくるあの視線を思いどおりに誘き寄せ、僕の興奮の絶頂に合わせて落としこむ快感。また、ヒレンクターに巻きつかれた?こそばゆさ?に責められ、恥じらいを捨てながら内側の深くのものを開放させて?ひとつしかないもの?をごまかしなく暴きだす快感。
 ――演奏時間は約七分――
 演奏が終わったあと、会場からは出演予定のなかった奏者へ向けての拍手音があがる。でも僕は、それをどうでもいい価値として会場を出た。
 会場から出る前、僕を知るピアノ教室の先生が背後から僕の名前を呼んで近づいてきたが、僕が呼びかけをあえて無視して先へ歩いていることを察したのか、途中で近づくことをやめ、駆け足の音を絶やした。
 帰りぎわ、市民会館の付近を歩いていると、ヒレンクターがバカになったように笑いはじめる――。声は出ていないが、それが?バカになって笑っている?ことは、よくわかった。大きく口を開き、舌を出したり引っこめたりしながら、腹を上に向けて悶えるように地面を這いずりまわっている。
 それは今の僕を悦ばせるのにピッタリの動きだった。ゾクゾクする。


     *
 ――想像力を与えよ。ちんけな想像力ではなく、眼前に広がるこのうねった川を埋め尽くすほどの想像力を。
 私がそれを授かったなら、流れに従うふりをしてなにも焦らず、嘲笑う表情をできるだけ隠しておき、好きなときに反乱を起こすつもりだ。以前に握り潰し、踏みしだいたものの存在をすべて忘れ、次のものだけを越えていく気持ちで――。
 きっと、越えたものを振り返りさえしなければ、私が迷うことなどありはしないのだから。
 先へ、また先へ、次のものを見させてほしい……。


   ○誰かの声のせいで

 遠くから聞こえてくる声は、僕が想像しているものではなく、たしかに誰かが発している声だった。なぜだかそれを聞くたび、僕の中の寂しさが共鳴するような意識が起こる。
 ……聞きたくない声は聞きたくない……。
 どうやら今、僕の中で?制圧せよ?という言葉が居据わっているらしい。遠くから聞こえてくる誰かの声に気づくたび、寂しさの共鳴を遮るように、僕の中で?制圧?という言葉が同じサイズのまま分裂する。
 想像力によって創りだした世界に、誰かが外部から放りこんだ声が紛れこんできた。その声は遠くから、自分の存在を僕に伝えようとする。
 ……ここは、僕だけの世界ではない……?
 今もまた、遠くから聞こえてきた誰かの声に反応して分裂する。
?制圧せよ――制圧せよ――制圧せよ――制圧せよ――制圧せよ――?
 ………………………………………………
 その言葉は、僕が冷静な落ちつきっぷりを意識的に演出しようとしても、おかまいなく、そこに感覚を開放させるための起爆剤らしきものを投じてくる。それはまるで、僕の内面に潜んでいるカオスのようなものを刺激し、逆上させ、脳に充満したそれによって僕が現在を見失うことを狙っているようだ。
 それでも僕は、自分の内側から指示される?悦びの行動?へ自分を進ませようとする欲求とは別に、寂しさを意識してしまったことで気づきかけていたことがあった。
 僕に必要なのは悦びではなく、なにも怪しいことのない、日の光と同色の、もっと鮮やかなものではないのか、と――。悦びよりも、もっと自然で明るい素直な喜びを……?
 いったい?聞きたくない声?とは、どの声のことだろう? どこか遠くから聞こえる声のことなのか? それとも、僕の中で分裂する声のことなのか?
 どうであれ、とにかく分裂する。?制圧せよ?という言葉が、僕の中でカオスのようなものを拡げながら分裂する。
 ………………………………………………
 いったい、どうなのだろう?
 僕は目が塞がれば脅えて縮むのか? あるいは両手を振りまわして暴れるのか? 近くにある?なにか?に気づくことなく……?


   ○霧が晴れるとき

 今日?僕のことが好きだ?と言う女が現れた。
 僕が十二歳まで通っていたピアノ教室でなんどか会ったことのある、今は十六歳の女だ。女は僕と付き合いたいらしい。おそらく、五日前の市民会館でピアノの発表会当日の僕を見て、そういう気持ちになったのだろう。
 そこは昼間でも人気の少ない公園だったが、僕は念のため、返事をするまでに時間が欲しいと言い、夜にまた同じ公園に来るよう女に告げた。
 ―――――――――――――――――
 その夜、ふたたび女と公園で会った僕は付近に誰もいないことを確認し、いくらか坂になった芝生の上に女を押し倒す――。
 性行為は、僕にとって初めてのことだった。
 行為中、ヒレンクターは笑っている。僕となんども目が合い、そのたびに笑いの彫りを深めながら、その場面を眺めている。
 なぜか僕は、行為中、自分一人とヒレンクター一匹の存在しか気づけなかった。イヤがる女がそこにいることを知りながら、僕は女を感じることができなかった。
 ………………………………………………
 行為のあと、仰向けになって空を見つめる僕のとなりで、女はこちらに背を向けて泣いている。
 少し前まで、辺りには霧のようなものが立ちこめていた――そんな気がしたが、ひと息つくと、うす白い波の向こうに霞んだゆらめくものを見るための?想像力の手探り?が必要なくなったかのように、モヤが消えている。
 僕は満月にはわずかに足りない月を眺め、意識がつねに?見えているものだけ?に働いているような気がしていた……。
 暗がりから守ろうとしてくれているようなささやかな月あかりを受け、僕はこの芝生を、色彩の豊かな花畑にも、怨念を敷き詰めたようなどす黒い荒れ地にも変えられずに、となりの女も知っている?当然の芝生?として見ている。それはまるで、想像力がどこかへ行ってしまっているようだ……。
 僕は立ちあがり、泣いている女になにも言わず、その場から離れるように歩きだす。
 そこで、ヒレンクターがついてこないことに気づいたので、僕はさっきまで寝転がっていた芝生を振りかえった。ヒレンクターは女のそばで、女を見つめている。僕はヒレンクターがなにをするのか、いくらか気にした。そこに期待はない。ただ気にしただけだ……。
 すると、ヒレンクターは女の影を咥えて引き剥がし、丸飲みにした。でも、女はそれに気づいた様子を見せず、同じように泣いたままでいる……。
 ―――――――――――――――――
 二日後に?地元で十六歳の少女が自殺をした?というニュースを聞くと、となりにいたヒレンクターはニヤリと笑い、そのあとでまた咳きこみはじめた。
 以前にも似たような苦しみかたを見せたが、これまでに増して症状は激しくなっている。ヒレンクターは大量の胃液を吐きだすと、そこで苦しみの峠を越えたらしい。あとはただ荒れた息を吐いて疲れているだけだった……。
 見ていた僕は、すごく寂しい。でも、それは感じているとは思えないもので、体感を無視したところにある寂しさ。感じるのではなく、寂しさというもののカタチだけを見つめ、そこにありつつも、自分のものとして捉えていないような……。
 頭は働いているはずなのに?なにかを感じる?という動物的な本能が塞がっているような気がする……。
 復調したヒレンクターは、自分を見つめる無表情の僕に向かって口を大きく開け、シャーッと喉を鳴らして威嚇するが、僕はなにも思わない。
?寂しさ?というカタチを見つめてはいたものの、すべてがどうしたことでもなかった……。


     *
 ――感情は地球のようにまわった。
 宇宙から地球を指さし、そこから指を動かさずにいると、いずれ指はさっきとは違う場所を示しだす。
 国を消すか、創るか、あるいは海を埋めるか、拡げるか、または山を噴火させることも検討する。それが?感情を選択する?ということになり、また?未来を構築する?ということになる。


   ○閉鎖された感覚

 ピアノを弾くのが怖い……。
 女との行為のあと、一週間が過ぎている。そのあいだ、感覚が閉鎖されているような気がして、僕はピアノを弾けずにいた。
 今、ピアノの前に置かれたイスに座り、鍵盤へ指を載せている。でも、音を出すまでには勇気が必要だった。
 いつもなら僕がピアノを弾こうとすると、急かすように鍵盤を睨むヒレンクターが、それをしない。ここ三日間、一日に五回ほど起こっている例の症状のせいで調子が乗らないみたいだ。僕が鍵盤に指をかざしてみても、ぼんやりした様子で眼を向け、すぐに視線を外すというようなことが繰り返し続いている。
 ……でも、このまま弾かないわけにはいかない……。
 いちどだけ深呼吸したあと、僕はとうとうピアノを弾きはじめる――。ヒレンクターは鍵盤を見たが、それは睨んだのではなく、ただ見ただけのようだった。
 演奏中、僕はなんども自分に問う。
 どうだ? これか? これじゃないのか?
 ………………………………………………
 僕は音を確認し、がっかりする。なによりも、閃きによる快感がまったくないことに気づいた……。モノにしたはずの?コツ?を必死に駆使しようとしても、内側のずっと深くに迫るような感覚が消え、?見えているものをそのまま解釈する?という平凡なことしかできていない……。
 三分ほどの演奏で終え、僕はうなだれた。しばらく放心し、そのあとで考える。
 技術ならちょっとした間違いもあるが、僕が求めているものは技術ではない。また弾いても同じ演奏を繰り返すだけだ。ここ一週間、?コツ?が馴染んだはずの感覚をまるっきり味わえずにいる……。
 閉鎖される感覚――それが原因なのだから、練習量や技術の見なおしではどうにもならない。僕の閃きは、想像力は、いったいどこへ行ったのだろうか……?
 ヒレンクターは僕の座っているイスのとなりで目を閉じ、とぐろを巻き、僕と同じようにうつむいている。
 ………………………………………………
 視界の上のほうに映る鍵盤を見て思った。
 今の僕の演奏は、ごまかしなく暴いた正体を表にひっぱりだした感覚が目的の場所へ効果的な一滴を落とすのではなく、適当な場所へ適当な一滴を霧ふきで拡散して撒くような軽さと曖昧さがある。
 散らばった音たちは、やがて刈り殺されていくだろう。十で固まればその場を凌げるものの、それらはそれぞれの風向きによって仲間割れをはじめる?それぞれの個?なのだから。
 すると、鎌を持った姿カタチのないものが?まばらな個?に鎌を当て、脅かして遊んでいる……。
 僕はもう、どこでもなく、この場所でイスに座って動きたくなかった。?すべてがどうしたことでもない?と思っていたのだから、動く必要もない……。


     *
 ――また争いを見ることになった。多くの人が生きているからではない。自分自身が迷っているからだ。
 私は争いの先に、自分の左と右に立ったそれぞれ異なる質のものに支えられ、三つの影を揃えながら直立不動し、こう言わなければならない。
?私は一人で立っているのです?と。


   ○争いはふたたび

 今、外の景色が見えない曇った窓がひとつだけある部屋に、僕とヒレンクターがいる。
 よく見ると、窓に面したすぐ横の壁に小さな穴が開いていることに気づいた。僕はこれまでになんどか、その穴から外を覗き、見つけたものを表現として発揮したことがあったんだ――と、穴を見つけた途端に思いだす……。でも、今いちど穴を覗くと、途中からは白いカスが詰まり、向こうが見えなくなっていた。
 この部屋に意識が飛んでからはずっと、ヒレンクターは曇った窓のほうを見ながら、なにやら脅えたような様子でいる。僕は、ヒレンクターが外の景色が見えない曇った窓の向こうから、いったいなにを感じ取っているのかが気になった。――すべてに対して意欲が皆無のような最近の僕だが、身近にある手ごろな不可解にいくらかの好奇心が湧いている……。
 窓を確認すると、外から鍵がかかっていたので開かない。部屋の外に窓の鍵が取りつけてあるなんて不思議だな、と思っていたそのとき、ヒレンクターが例によって苦しみだした。それも、これまでを上まわる激しさで――一分、二分、まるで内臓が喉に押しあがっているかのように苦しみ、大量の胃液を吐きだした。そこには胃液だけではなく、鍵らしい物が紛れていることに、僕は気づく。
 その物体を見ていると、内側に備わっている本能のようなものが呼び起こされ、衝動的にその鍵らしい物を右手に取り、強く握って、顎と胸の中間まで持ってきた。
 僕は緊張して、自分の心拍音を容易に確認できる状態になり、胸に?震える空白?をイメージする。それに興奮も伴い、今いる部屋を好き勝手にアレンジできる準備ができたような気がした。もし、この部屋にフタの閉まった箱が散らばっていれば、中身を?かたっぱしから探ってやろう?という好奇心が溢れている。
 すると、なぜかヒレンクターは、危機を感じたかのように?僕の手の中の物?を奪おうとして、すぐさま僕の手に噛みつく勢いで首を伸ばしてきた。僕はかわす。
 直後、僕は衝動的に?僕の手の中の物?を壁に開いた穴へ挿しこんだ。それによって、詰まっていた白いカスが外に押し出たのか、穴の途中で止まった鍵のような物の向こうの?想像ができない場所?の地面になにかが落ちる音がした。さらに、穴へ挿しこんだ鍵のような物は、誰かが即座に壁の向こうから引っこ抜いたかのようにして、穴から消えている。
 僕は穴の向こうを覗いているが、なにも見えない。暗闇? 光? なにもない。
 そこで、ヒレンクターは発作の苦しさが残った様子のまま、窓のほうを見ながら口を開け、シャーッとやった。窓がガタガタ音をたて、カチッという音が聞こえると、誰かが外から窓を開く。
 それは――――以前に見た神だった……。
 窓枠をまたいで部屋の中へ入ってきた神にヒレンクターが襲いかかり、神も応戦する。
今、僕はあのときのことを思いだした。それは、初めて神とヒレンクターが争っているのを見たときのことだ。意識の中で、あの争いと現在の争いが重なり、以前に癒えたはずの胸が疼くのを感じる。
 ――空白だった?そこ?へ、所々が尖った煌めくものを認めた――
 いちどは抜いたはずのガラスの破片のようなものが、以前と同じように?そこ?へ……。
 すると、僕はまた狂人になってしまったが、今度の行動は以前とは違い、胸から抜き取ったガラスの破片のようなものを、神とヒレンクターに突き刺した。神を刺しては、次はヒレンクター、また神を刺しては、次はヒレンクター。そうして僕は、神とヒレンクターを切り刻みにかかった。
 僕は神に抱かれて石になり、ヒレンクターに噛まれてドロドロに溶けていく……。
 液体化した僕は床に伸び、依然として争っている神とヒレンクターを見あげ、たずねた。
「オマエたちは、僕の中のナニモノなんだ?」
 ………………………………………………

 あのとき、僕はピアノを弾いていた。閃きが快感を誘い、神経を悦ばせながら。
 いったい僕は、なにを求めていたのだろう?
 ………………………………………………


     *
 ――あぁ、見ていた寂しさのカタチが、とうとう私に重なっていく。もう、ごまかしが効かなくなる……。
 現在の欲望を満たしても、次の場面はごまかせない。
 
 どうやら私は、あなたに叱られるのですね……?


(了)


散文(批評随筆小説等) 大蛇と影を重ねて Copyright ポッポ 2010-03-04 08:41:20
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