批評祭後雑感——現フォはこれから
KETIPA

批評祭前後で、自分と似た詩の読み方をしている人がどうやらいるらしいということを知れたというのは、結構大きな収穫だったと思う。時々新着作品のタイトルにマウスを滑らせて、最初数行を見ては「はあ」と感じることしきりだったので、少しは救われた気分。

それから、批評祭のエントリー作品やらそのコメントやらを通じて、なんか批評とレビューがごっちゃになってないか、と感じることがちょくちょくあった(ジョグジャカルタを連想させるな、ちょくちょくあったって)。

睡蓮さんから「死蔵作品を救うのは批評じゃない」のタイトルは良くないと言われたが、別によくないことはないと思っている。でも「死蔵作品を救うのはレビューじゃない」なら、それはまずいタイトルだと思う。

レビューはあくまで、良質な作品をすくい上げて、その作品を知らない人に興味を持ってもらうものであると思っている(詩初心者に向けて書くのがよりいいと思う)。批評にもその機能がないとは言わないが、文学的な批評、解釈的な批評、批評のための批評は、別に「現代詩意味不明なんですけど」とかいう、現代詩のゲの字も知らない人に向けられたものではないと思う。それはまた違う意味で重要とはいえ、新規読者構築という意味で現代詩救済に貢献できるかという点では、不足だと思う。

そして現代詩フォーラムでは、その批評とレビューを混ぜて扱ってしまっている。しかもレビューとか批評とか関係ない散文も大量に混ざっている。だから批評カテゴリを初心者が漁ったとしても、良質なレビューにたどり着いて現代詩により興味を持つことはなかなかなさそうだ。例えばツユサキさんのレビュー(本来的な意味での)は、純粋な批評とは分けて考えるべきだと思う。ああいう純粋なレビューを、もうちょっと前面に押し出してもいい、押し出すほうがいい。

ただレビューそれ自体があまりにも作品的になってしまうと、それはそれで取り付きにくい批評になる懸念がある。それはジレンマのようでもあるけど、読み物としても面白い現代詩レビューは、不可能ではないと思う。面白いブックレビューを書くほうがハードルは低そうだけど。


ただ、「百科辞書つくりたいならWikipedia」「検索するならまずググれ」と同様に、「現代詩書くなら読むなら現フォにて」は、それなりに現実的な選択肢になってると思う(文学極道よりハードル低いし)。そういう意味では、潜在的な書き手、読み手を寡占的に集められるという現代詩フォーラムの強みはある。とはいえ現状では、一度来た客を恒常的なリピーターにするだけの求心力にかけている気がする。Wikipediaでもそうだけど、多くの人が集まることによる強みというのは、一から築こうとしてもなかなか簡単にはいかない。その「数による強み」を生かしつつ、「数集まることによるノイズの増加」に対処することが、現フォのこれからの課題だろう。Wikipediaのように、無数の編集者がノイズ(荒らしとか無為な書き込みとか)に対処していく自浄効果が、現フォにも出てきたらしめたものだ。

なんせ「現代詩」でググると、ほぼ毎回トップに出る現フォ。もうちょい現代詩に対して影響力をもったっていいじゃないか。死蔵文書を救い出すために働きかけるための文章が死蔵になっててどうする。


散文(批評随筆小説等) 批評祭後雑感——現フォはこれから Copyright KETIPA 2010-01-21 23:06:25
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