批評を書く、ということは他人と自分が違うことを認めることです。僕は批評を書こうとすると絶望の淵に立たされた気持ちになります。僕はひとりなんだと途方に暮れます。誰が僕なんかの批評を求めるのだろう。
・どうでもいいこと、どうでもよくないこと。
【詩学社、そして寺西さん/角田寿星さん】
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=168204
詩は読まれていない。ネットで詩を投稿する人すら詩を読まない人がいる。詩がこの先どうなろうと、今ネット上で詩人がどうなっていようと、どうでもいいことなのだろうか。意図的に話を大きくする。人を傷つけてでも自分の夢を本気で叶えたいと願った人が、子供の夢は、他人の希望は叶えてあげない。そんなことでいいのだろうか。ネットにおける責任者は誰なんだろうか。誰が弱者を助けるのだろうか。誰が努力を認めるのだろうか。
そういうことばかり言ってる人は正直鬱陶しいと思う。しかし僕の心の中で問いは尽きない。次々と溢れてくる問いに対してなるべく「どうでもいい」と口にしないために、馬鹿にしていた「大人」に向かって直進しないために、活動家を名乗ることにした。どうでもよくないから、どうにかしたい。辞任のとき、記者に怒った福田元総理が「あなたとは違うんです!」という台詞を言い放ったことがとても印象に残っている。僕にとってその台詞はとても悲しい。僕とあなたが違うことはとても悲しい。
僕はそういう鬱憤をこの批評祭にぶつけている。
・詩を売れるものにしよう?
【詩の商品力/いとうさん】
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=58523
活動家を名乗って分かったことは「詩人」と「活動家」は違うということだ。或いは、違うとすべきだということだ。すべての詩人がどうにかしなきゃいけない問題と活動家がどうにかしなきゃいけない問題がある。
2001年あたりに「詩のマーケティング論」という評論をいとうさんが書いた。ネット上における「詩を売れるものにしよう」「詩を読まれるものにしよう」という合唱はこのあたりがピークじゃないかと推測する。しかしどれだけ議論が続いても一向に結果が出ない。詩集も売れないし、詩の認知度も変わらない。そんな中でネット出身の最果タヒさんや、文月悠光さんが一部で高い評価を受けた。ネット上でいくら議論しても無駄じゃないか、そういう倦怠感が未だに漂っている。みんなで首を傾げたまま、「もう話しても無駄だ」などとぼやいている。
一体、あなたは何の心配をしているのだろう。詩を売るために必要なのは効果的なマーケティングの技術と実践であり、詩人がみんなで首を傾げることじゃない。それは活動家がやればいい話だ。詩人の仕事は別にある。そんなことはもうしなくていい。
詩人たちが語るべきことは他にいくらでもあるんじゃないだろうか。いとうさんを責めるわけではない。その知識を提示したことは有益であったと思う。問題はそんなことしか語ることを知らないネット詩人たちにある。
・詩人たちの語るべきこと
【若いひとたちがやってきてみんなを殺す/choriさん】
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=72813
choriさんの散文が深く印象に残っている。言葉を大切にしなければいけないであろう詩人が、「人が人を"殺す"」という言い回しを使ってまで伝えようとしたもの。choriさんはイベントを主催したり全国ツアーを行ったり活動家の色が濃い詩人なのだが、詩を愛するが故に活動家であるジレンマを勝手に読み取ってしまう。これは活動家としての叫びではなく、詩人としての叫びなのだ。
売ることしか、読まれることしか本当に語ることはないのだろうか?本当に詩人として大事なことは詩でしか伝えられないのか?その自問自答を僕はあなたに提案する。今、ネットでは批評を見ない。それは過去の人物を"殺す"だけでなく、自分たちで殺し合いをしているようなものじゃないだろうか。ネット詩の将来のために、再考を提案する。
(つづく)