書いてしまって、また後悔するかもしれないんだけど。
まずはお礼から。
詩学社の破産、廃業の折は、「詩学社を救え!(
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=136729)」という稚拙なアジテーションに、みなさんから多大なご声援ご協力をいただき、ほんとに助かりました。
ほんとうにありがとうございました。
寺西さんの死という、最悪の結末を迎えてから、もうすぐ1年になります。
詩学社の抱えていた借金の行方や、会社の権利などなど、噂ではまだ宙ぶらりんとのことで、おかげで、詩学社最後の出版物であるクロラくんの詩集も、まだ刊行のめどが立たないらしいです。
これに関しては、これ以上は、部外者のぼくが語るべきことじゃないかもしれないね。
というわけで、去年の10月から11月にかけての顛末を報告したいと思います。
ぼくが詩学社廃業のニュースを知ったのは、一枚の葉書からでした。
定期購読者に配られた葉書、そこには、「主に社長である寺西さんの病気のため、廃業します」と書かれていたことは、周知の事実。
その翌日に、寺西さんからの電話。債権者であったぼくに、借金の返済方法についての相談でした。詳しいことは語れないけど、提示された方法は、ちょっと寺西さんそりゃあなたがかわいそすぎるよ、という内容でした。
「じゃ在庫の詩集や雑誌で借金の埋め合わせをしましょうよ」ということで詩学社に出向いたぼくが見たものは…
詩学社は、ぼくが想像していた以上に疲弊しきっていました。
マンションの一室を利用した事務所には、雑誌や詩集の在庫の山。
そしてそこにいたのは、かつてのスタッフは影も形もなく、すっかり痩せてしまった(「倒産ダイエット」と笑っていましたが)寺西さん、ただひとりでした。
後に聞いたところによると、かつてのスタッフは、経営状況の悪化の際に、クビを切るようなかたちで退職させられた、とか。
つまりこの在庫の山を、助ける人もなく、寺西さんひとりで何とかしなくちゃいかん状況だったんです。
これを見てまずぼくが思ったのが「いかん、このままじゃ寺西さんが本格的に壊れちゃう」ということでした。んで、ここにぼくがいる。
ぼくにとっての初発の動機は「詩学社を救え!」ではなく、実は「寺西さんを救え!」だったんです。
大型のスーツケースに入りきらないほど雑誌と詩集を買い込んでも、10万ちょっとにしかならないことも、ぼくの絶望感に拍車をかけました。
わずかな希望をもって、2ちゃんねると、ここ現代詩フォーラムに書き込み。
その日の夜に、馬野幹くんから電話。「今から社にすっ飛んで行きます」とのこと。多分、幹くんも「寺西さんがエライこっちゃ」という、同じ気持ちだったんだろう。
2ちゃんでは「ツブれるもんは仕方なかろ」と正論をいただいてジ・エンド、だったんですが、現代詩フォーラムでは、幹くんが速攻で在庫の目録を作成してくれ、あとはみなさんも知ってのとおりです。特に只野凡人さんは、日を置かず何度も詩学社に通い、発注や在庫整理の手伝いをしていただきました。
ぼくとしては、想像をはるかに越える反響でした。
詩集なんて古本屋に売れば二束三文、雑誌にいたっては下手すりゃ買い取り拒否、なんてザラにあることで、そんななかで、倒産間近の会社の本に定価で注文が掛かる、なんてのは、ありがたい以外の何ものでもないですよね。部外者だったぼくが言うのも変ですが。
でも、それでも廃業は避けられなかった。実は、在庫を定価ですべて売り捌いたとしても、借金をチャラにすることは不可能だった。
絶望的な状況に変りはなかったけど、寺西さんは非常に喜んでいました。注文が殺到したことより、みなさんからの励ましが、ほんとに身に染みて嬉しかった、と仰っていた。ぼくは「寺西さんがコツコツと播いた種がようやく実ってくれたんですよ」と返答したことを思い出します。
約80件の注文をいただいて、収益は、破産申請の弁護士費用にありがたく使わせていただく、とのことだった。
詩学社の衰弱は相当なものでした。最終的な定期購読者は250人。わずか、というべきでしょう。その人たちへ廃業の通知をする葉書代にも事欠く有様でした。
そして、社の借金総額。それは少ない額ではないけれど、ぼく個人でも肩代わりが可能な金額だった。
つまりその程度の金で、詩学社はツブれた。
でもそれをやると、ぼくは離婚しなきゃなんなかっただろうし、寺西さんは病身を押して働かなきゃなんなかっただろうし(だって後継者がどこにいる?)、ぼくも運転資金の捻出のため、身を粉にして働かなきゃなんなかったろう。そして現在の経営状況では「融資」したところで、回収の可能性はゼロだった。
ぼくは追加融資をしなかった。結果的に、ぼくが詩学社に、最後の引導を渡した。
ぼくは在庫整理に集中した。借金の肩代わり云々には固く口をつぐんで、偽善的かつ姑息的手段であることは承知のうえで。一方、積み上げられた本の山を金に換えることが寺西さんの負担を減らすことも明らかでした。
だからぼくは、本を可能な限り売り抜くために、頭を下げて廻った。
紙媒体の詩人からの申し出は、少なくとも大きなものは、ほとんどなかった、かな。それに関しては只野さんの方が詳しいとは思うけど。何にしても、これ以上はぼくの力の及ぶ範囲ではない。
ピクルスさんが、保管場所提供の申し出をしてくれた。ぼくは雑誌の在庫の残りを買い上げて、ぼくの仕事は終了。寺西さんと握手をして別れてきました。寺西さんはどこか疲れていたけど、笑みをたたえて、「これだけは手放せないですね」と実家に持って行く詩集の話などもしていました。
数日後にあんなことになるなんて。
詩学社がツブれた理由や、寺西さんの社長としての功罪について、ぼくが言及する立場にないのは重々わかってるけど、彼の功績は、ネットを含めた草の根レベルでの詩人の発掘と、若手詩人との交流。彼を慕う若手が多かったからこそ、土壇場でのこうしたムーヴメントが生じたのだ、と思います。
一方では、そうした交流を金に換えることができなかった。そして、明らかな営業不足。多分、いい詩はいずれ誰かが気づいてくれるという(素人くさい)考えがあったんじゃないかな。その結果、詩集の賞獲得レースでは、思潮社や青土社などに明らかな遅れをとっていた。賞をもらえないので、詩集の売り上げも伸びず、詩集作成の注文も減っていった。
詩の会社は、雑誌ではほとんど儲からないそうで、詩集を出版することで、ようやく利益があがるそうです。看板の詩集出版がジリ貧になったことが、詩学社の倒産の原因になったと考えられます。
ミッドナイトプレスのように雑誌休刊のうえ、金のかからないシステムに経営形態を変えることも出来たのかもしれませんが、遅きに失した、というところ。
まあどっちにしろ、現在の経営形態では、詩を扱う出版界自体がジリ貧になってしまってるのかもしれません。
「これからは詩集を買ってあげてください」と、寺西さん。これが、ぼくにとっての寺西さんの遺言のようなものとなりました。ぼくは「はい」と言うのが精一杯でした。
みなさん、ありがとうございました。
そして寺西さん、ありがとうございました。
ぼくはあなたと出会えて、ほんとに楽しかったです。