江國香織の詩集『すみれの花の砂糖づけ』(新潮文庫)は、理論社刊の詩集『すみれの花の砂糖づけ』に12篇を増補した、全部で70篇ほどの詩集だ。
今回はこの詩集を、「つめたい」というひとつの言葉に着目して読みながら、「詩を読む(あるいは、書く)」ということについても、考えていきたいと思う。
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『すみれの花の砂糖づけ』には、「つめたい」という形容詞がぜんぶで4ヶ所でてくる。さて、なぜ今回「つめたい」を取りあげるのか。そう問われても、なんとなく印象に残ったから、としか答えられないのだが、たとえば一番はじめに出てくる詩は、こんな具合だ。
「おっぱい」
おっぱいがおおきくなればいいとおもっていた。
外国映画にでてくる女優さんみたいに。
でもあのころは
おっぱいが
おとこのひとの手のひらをくぼめた
ちょうどそこにぴったりおさまるおおきさの
やわらかい
つめたい
どうぐだとはしらなかったよ。
おっぱいがおおきくなればいいとおもっていた。
おとこのひとのためなんかじゃなく。
この詩は、「9才」という詩と並べてよんでみると、おもしろい。
「9才」
母と肉屋にいくたびに
私はレバーに見入っていた
ガラスケースの前につっ立って
ケースの中のそれは
つめたそうに
気持ちよさそうに
つやつやと濡れてひかっていた
あれを食べたい
とか
あれにさわりたい
とか
私が言うと 母は顔をしかめた
母は決してそれを買わなかった
そして
あなたは残酷ね
と
言うのだった
ここにも、「つめたい」という言葉がでてくる。9才。それは恐らく、「おっぱいがおおきくなればいいとおもっていた」年齢なのではないだろうか。初潮のはじまる、少し手前の年齢でもある。
ここで一度、「つめたい」という語句の意味について、辞書を参照してみたい。
つめた・い【冷たい】(形)
1物質の温度が自分の体温より著しく低いと感じる。「―・く冷えたジュース」
2体や体の一部が、普通より低い熱をもっていると感じる。「凍えて手が―」
3人情味にかけ、冷淡なさま。つれない。「彼の態度が急に―・くなった」「―仕打ち」
(『明鏡国語辞典』)
上で挙げた2篇では、どの意味にあたるだろうか。「9才」の「つめたそうに」というのは、1の「物質の温度が自分の体温より低い」というのであてはまるだろう。
では、「おっぱい」の「つめたい/どうぐ」は、どうだろう。この詩の「つめたい」の場合、問題なのは、「物理的なつめたさ」ではなく、「精神的なつめたさ」なのではないか、と思える。つまり、「つめたいジュース」とか、「手がつめたい」とか言うのより、「つめたい仕打ち」の「つめたい」と同義なのではないだろうか。この、ここの部分。「おっぱい」を「どうぐ」であるという、身体の一部を、物に例えるという物理的な次元で物事を語りながら、精神的な次元での「つめたさ」を語るという、ずらしかた、こういったことを、あたり前のようにやってしまうのが、詩のおもしろさだと、私は思う(もちろんすべての詩にこういった部分があるわけではなく、ある必要性もない)。
ところで先ほど「9才」の「つめたそうに」は「物質の温度が自分の体温より低い」という意味であると断じたが、次の詩を読むと、この「つめたそうに」には、精神的な距離、といったものも含まれているのではないだろうか、と思えてくる。
「つめたいメロン」
つめたいメロンをたべながら
「つめたいメロン
つめたいくちびる
官能的なきもちになりました」
と 言ったら
あなたはおどろいて
あわててコーヒーをのんだね
きもちよ、きもち
あなたと私は全然ちがうね
つめたいメロン
つめたいくちびる
しずかな昼下がりです
「つめたいメロン」はもちろん物理的にも「つめたい」わけだが、この詩では、「官能的なきもちになりました」と言われて、「あなた」は「あわててコーヒーをのん」でその場を取り繕い、「あなたと私は全然ちがうね」と言わしめてしまう、つまり、「私」と「あなた」の精神的な距離が、「つめたいメロン」をモチーフとして語られているわけだ。
そう考えると、「おっぱい」でも、「つめたい/どうぐ」であるという「おっぱい」に対して、どこか冷めた視点、精神的な距離があるように思われる。
では、「9才」ではどうか。「ガラスケース」の中の「レバー」は、話者から物理的な距離もあるわけだが、そもそも、人が憧れを抱くのは、精神的な距離、方向性の違い、があるからではないだろうか。「よそゆきの服はきらいだった」(「よそゆき」)と語る、両親の庇護のもとにある作者と、母に「顔をしかめ」られるグロテスクなレバー、その立ち位置の違いが、「私」に憧れを抱かせているのではなかろうか、と言える。
ここでもう一篇、「つめたい」という語が出てくる詩を読みたい。
「なにもない場所に」
なにもない場所に
言葉がうまれる瞬間を
二人でもくげきしたね
あれは
夜あけのバスにのって遠い町にいくときの
つめたくうす青い空気くらいまぎれもない
たんじゅんにただしい
できごとだったね
この詩の場合、少し難しい。その短さゆえに、如何ようにも読めてしまうからだ。ただ、「もくげきしたね」と、「できごとだったね」という語り口から、もう終わったことだという意識、これまでの「つめたい」という語から、やはり「二人」の精神的な距離の隔たりを書いているのではないか、と考えられる。
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この「つめたさ」の距離感は、似たような言葉である「ひいやり(ひんやり)」を参照すると、より鮮明になる。
「午後」
(前略)
うえをむいて目をつぶったら
まぶたに日があたって きもちよかったので
私は
まぶたに日があたってきもちいい
と、言った。
すると、とじたまぶたに
やわらかな唇がおちてきた
やわらかな、ひんやりとした。
それで私は
唇のほうがもっときもちいい
と、言った。
(後略)
ここで「ひんやり」は物理的なつめたさを指しているが、「わたし」と「あなた」はまさに熱烈な仲であり、精神的な隔たりはまったく見られない。
「私はとても身軽です」
浴衣をきるのはひさしぶり
あとは余生
と
おもうので
私はとても 身軽です
(中略)
夏の夜は闇が濃く
風が甘く
ひいやりとして
いい匂い
そばにいる
と
いってくれてありがとう
でも あなたはここにいないので
私はとても 身軽です
ここでは、「あなたはここにいない」わけだが、「私」は「とても身軽です」と語っているように、精神的な欠落は見られず、完全にふっきれていて、安定している。つまりいずれにしても、「ひいやり(ひんやり)」は満たされた感情の場面で用いられており、「つめたい」との違いは歴然と言える。ここからも、「つめたい」が用いられた場合の精神的な距離、隔たりが浮かび上がってくるのではないだろうか。