【批評祭参加作品】客観描写ということ(高浜虚子)
古月

 優れた詩に出会うというのは、そうそうあることではない。
 それはインターネットの世界も同じことで、ここ現代詩フォーラムにおいても、文句なしに優れた書き手といえる者は全体の1%にも満たないのではないかと思う。
 わたしは詩を書き始めて三年になるが、実にそのうちの二年を、ろくに他人の詩を読むことも技巧を学ぶこともせず、無為に過ごした。おそらくフォーラムの参加者にも書き始めて日が浅く、わたしと同じように自己流であてもなく思うままを書き連ね、同じように伸び悩み、表現の壁に当たっている人もいることと思う。

 そこで今回は、そうした初学者のために、俳人である高浜虚子の言葉を「玉藻」に掲載されたものから引用し、紹介してみたい。現代詩と俳句、違いはあれど、表現という点では同じである。これをお読みいただいているあなたが虚子の言葉を心の片隅にとどめ、今後の創作活動において役立てていただけるならば、これに勝る喜びはない。

1.主観批判

 のっけから乱暴な話をするようだが、読んでげんなりする詩というのは、残念ながら確かに存在している。読み終わったあと「ああ、またか」と思い、何の感慨も催さず、すぐに忘れる。そういう類のものである。
 とはいえ、誰しも好んでそんな詩を書いているわけではないだろう。みな、己の心のうちを伝えようと苦心し、自分では最善を尽くしたつもりで、それでもなお陥穽に嵌っている。その陥穽こそが、「主観」なのである。
 虚子の言葉を引用してみる。

「手っ取り早く作者の主観を述べた句、若しくは作者の主観に依って事実をこしらえ上げた句等は、私等から見ると外道である。」
「大衆はとかく感情をむき出しに詠いたがる傾きがある。その感情はもう飽き飽きして居る陳腐なものである。それは好ましくない」
「心に感動なくて何の詩ぞや。それは言わないでも分っている事である。ただ、作家がその小感動を述べて得々としているのを見ると虫唾が走るのである。そればかりでなく、そういう平凡な感情を暴露して述べたところで、何の得る所もない事をその人に教えたいのである。」

 こうした思いを、あなたも読み手として、一度ならず感じたことがあるのではないだろうか。月並みでありふれた、百万回も繰り返された言葉を、まるで自分の言葉のように語ってみせる詩、あるいは作者のみが了解している不可思議な思想を、さも読み手と共有できているかのようにおしつける詩、そうした詩は案外に多いものである。
 読み手は書き手が思うように都合の良い解釈をしてはくれないが、同時に書き手が思うほど愚かでもない。甘ったれた不幸自慢や幼稚な素人哲学の披露といった自己満足に、他人を巻き込むのは控えたいものである。
 そうしたむき出しの主観は、それがたとえどれだけ素晴らしい言葉であろうとも、読み手にしてみれば「それに対して感服するよりもむしろ反感が起こる」ものなのだ。
 だが、ならば主観を描いた詩はすべて詩として不出来なのか。そうした疑問をあなたも持つだろう。
 そこで、ようやく本題である。

2.客観描写
 
 はじめに、客観描写とは何か。
 虚子の言葉によれば、それは「客観を見る目を養い、感ずる心を養い、かつ描写表現する技を練ること」であり、「それらを歳を重ねて修練し、その功を積むならば、その客観は柔軟なる粘土の如く作者の手に従って形を成し、(中略)やがて作者の志を述べることになり、客観主観が一つになる」のだという。

 このことを、虚子は絵画にたとえて説明している。
 「絵も始めはその対象物を向うに置いて形なり色なりを研究するに始まって、その形や色が出せるに従って自然々々にその対象物と作者の距離が近くなって来て、自分の心に感ずるような形や色が自由に書けるようになって来る」。それによって絵は「同時に作者を写」すようになり、「それがいよいよ進んで来ると、如何にもその作者でなければ描けないというものになって来」る。
 客観描写であっても、「その人の現われ」を隠すことは出来ない。「これが芸術の尊い所以である。」そして、詩が尊い所以でもある。

 あなたが、自分が詩にこめた内面が読み手に思うほど伝わらないと感じるとき、翻ってあなたは自分の内面にどれくらい真剣に向き合えているだろうか。
 どうも、自分は散漫に書き散らして楽をしているくせに、読み手には読解の苦労を強い、そうして自分の望む読まれ方をしないと不満を漏らす書き手が多いように思える。
 読む努力をしない読み手を責める前に、書く努力を怠った自分を責めるべきである。

3.寡黙の力

 「寡黙の力」というものがある。
 「寡黙ということは、最も大きな人間の力の表現である」とはまことに同感であるが、それはおそらくは単純に言葉数を減らせということなどではないだろう。
 心のうちを一から十まで説明しなくても、情景を描くことで比喩的に心のうちは描き出せると言っているのだ。

 とはいえ、これは現代詩とはそぐわないと感じられる向きもあるかもしれない。
 難解・抽象は現代詩の性質上ある程度仕方なく、形式の破壊や文章構造の自由、既存の表現では表現しきれないものを追求する姿勢も分かる。
 だが、それでも詩が、書き手から読み手へと向けて伝えられるものであるならば「多くの場合は言葉の単純ということが大事」なのではないか。
 「不可解難渋であっては、その事に読者の心が労されて、作者の主観を受取ることが出来ぬ」。本稿を書いているわたしはといえば、ともすれば難解なものを好んで書きたがる人間だが、この言葉はいつも自戒として心に留めている。
 「一片の落花を描き、一本の団扇を描き、一茎の芒(すすき)を描き、一塊の雪を描き、唯片々たる叙写のように見えていて、それは宇宙の現象を描いたことになる」という虚子の境地に至ることは到底容易とはいえないが、わたしたちはこの精神を忘れずにいたいものである。 
 「感懐はどこまでも深く、どこまでも複雑であってよいのだが、それを現す現実はなるべく単純な、平明なものがよい。これが客観描写の極意である。」
 平板ではなく、平明ということ。この両者の違いをどうか、考えてみていただきたい。
 あなたが向き合う対象がもしも形のない心の中の風景だとしたら、この客観描写ということは想像を絶する苦労をともなうだろうと思う。だが、あなたが本当に良い詩を書きたいと思うならば、それは、どれだけ苦労してでもやってみる価値があるはずだ。
 
 最後に、ここまで読んでくださったあなたへ。
 もし本稿を読んで異論や反論をお持ちになるようなら、存分にそのことについて考えてみていただきたい。高浜虚子の「客観描写」は、やや頑迷な部分があることはわたしも否定しない。ぜひ、これを叩き台にして、あなた独自の詩論を組み立ててほしい。
 どんな形であるにせよ、本稿があなたの心に少しでも何かを残せることを祈りつつ、筆を置くことにする。


* 文中の「」内はすべて岩波文庫「俳句への道」(高浜虚子)から引用。


散文(批評随筆小説等) 【批評祭参加作品】客観描写ということ(高浜虚子) Copyright 古月 2010-01-10 13:32:55
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