十年の、事実
プテラノドン
メインレースは悲惨な結末、突風に吹き荒れた
駐車場を後にした。
赤信号に変わろうかという時に友だちが言った、
大外からまくれるぞ。俺たちなら行ける。
僕はアクセルを踏み込んだ。行けるかもしれないと。
「みろ、やっぱり無理じゃないか。」僕らは言った。
それから、大井競馬場前の交差点で
立ち往生するはめになった
車のボンネットに向けて皮肉を言った二人組の男に
僕らは罵声を浴びせた。
膝をついたそいつら二人に大丈夫?と声をかけた。
抗ったつもりかよ。災難だったな。皆てんで別々に笑っていた。
でも、交通誘導の警官が来るとは思わなかった。
赤ら顔の僕らを見て、「アルコール検出の必要アリ」
無線機に手を伸ばしやしないかヒヤヒヤしたものだ。
紙一重であれ、髪の毛一本であれ、競馬場に夢があるのは
ハズレ馬券を 床に投げ捨てる者たちが
羽を掻きむしるキチガイ鳥がいたせいだ。
明日からの日々を籠に捕らえられたように過ごすのは
結構なことだが、さえずることを忘れてはいけない。
そうすれば、黒ずんでいく羽根を気にせずに済む。
ところで、その日僕らは揃って大笑いした。
こうして地面に座り込んで食べるラーメンが
一番うまい。と言いながら地面に座り込もうとした友だちの
トレイに載せていた当たり馬券を、他の友だちがひったくり、
トレイを持ったまま、それを追いかけようとした友だちが
地面にどんぶりを落っことした時だ。
「こんな風に笑ったのはいつ以来だろう。」
そう言った友だちが、
彼女と別れた経緯を、
その娘が流産した話を、彼女が今は他の男と一緒に暮らしていると、
夏に浜辺で酔っ払って寝そべりがら話した時以来だっただろうか。
「こんな風に笑うなんてね。」僕は言った。
分かるだろうか?僕らが知り合って十年。
やってきたのがそれだ。今さら引き返そうったって無理。
高校二年の梅雨。天候をぬきにしても
べとついた中華料理屋のテーブルの上には、
空っぽのジョッキと食べかけの酢豚ー、僕らはすでに
そこに居なかった。煙りが立ち込める、駅前の
ゲームセンターのネオンの中にも身を隠したりしない。
閉じたらそれっきりの民家の扉の向こう側にも。
或いは、台風が上陸し、増水した川面に水しぶきが上がった。
僕らの内の誰かが、
盗んだ自転車を橋の上から投げ入れたからだ。
「音、聞こえた?」友だちはがなり立てた。
「聞こえねーよ。」どしゃ降りの雨に抗おうとする
僕らの表情は、笑っているようにも見えたに違いない。
その後ずっと、僕らは耳の中にまで侵入してくる雨のせいで、
水の中で話すみたいに、息継ぎもままならないままに
大声で話さなくちゃならなかった。届かせるために。
明日のこと明後日のこと、十年後のことも。
事態や状況がどうあれ、こうなっているはずだと、
当たるもんだと、
何処かで馬鹿笑いをしているもんだと。想像しながら歩いた。
この雨雲のはるか高みでは悠々と飛ぶ飛行機がいるもんだと。
僕は今でもよくよく思っているよ。いつかは皆と、
夜通し機内でひそひそ話をしたい。
ひょっとしたら今頃、
地上には僕らみたいなアホがいるかもな。とか、
その頃にはとっくに錆び付いているであろう
利根川に沈んでいる一台の自転車の話しを。
時折、押し殺せない声と混じりあいながら。
もしくは今日、僕らが競馬場で見た
老夫婦のように、車椅子に座る老婆の耳元に
話しかけた老人のその、優しい声で。
当たるといいね。でも、外れてもいいかもね。
僕らは老夫婦もきっとそう考えたに違いないと信じていたし、
願っていた。当たるもんだと。
これから十年先、どんなことが待ち受けていようとも。
引き返そうったって無理なのだから。
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以上、引用。
自由詩 十年の、事実 Copyright プテラノドン 2009-01-15 21:37:30
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速いのが好きだ。スピード感があるものがとにかく好きなのだ。音楽にせよ、映画にせよ、雨にせよ、何にせよ速いもの、スピード感があるものが好きなのだ。俺自身の劣等感や焦燥感を煽り立て、いても立ってもいられなくなってしまうような感覚が好きなのだ。マゾヒスティックな性癖の所為かも知れないが、とにかく速いのが好きなのだ。 俺にとって日常とは、あまり速度を感じられるものでは無い。試験前や課題製作中等は、時間に追われる事があっても、速度を感じられる瞬間は少ない。偶発的なボケに対するツッコミ等の短い瞬間はあっても、そうそう速度を感じられる事は無い。だから、他に速度を求めるのだろう。我ながら安易だと思うが、実に手軽に速度を体感出来るのだ。たまらなく気持ち良い。車や単車を持っているのなら話は変わってくるだろうが、もし持っていても違法行為や事故につながりそうなので、あまり良い事では無いだろう。己で創造せぬ、消費だけと言う行為は好感が持てぬよなぁ。万券を崩した直後から恐ろしい勢いで始まる千円札の消費は、いくら速いのが好きな俺でも、あまり好きになれない。
話が逸れた。
日常に存在しそうな混乱が好きだ。B級映画にありそうな、読者(視聴者)が置いていかれる寸前のギリギリの混乱が好きなのだ。難しい言葉や技法、難解な内容で置いて行かれるのでは無く、日常生活で溢れる物事が凄まじい速度で積み重なり、少しずつズレを生みながら、倒れそうで倒れる事無く高々と積み重ねられて行くその様、その感覚が好きだ。その一つ一つが理解出来るのに、つながっていく瞬間に発生する混乱、矛盾、がたまらなく好きなのだ。そのズレは少しずつであるが故に、一つ一つが繋がっていくのも理解出来る。だからこそ、そのわずかなズレ、と言うのがたまらなく愛おしく思える。それが日常に存在しえる、十分に想像出来る、または過去に近い思いでがありうるからこそ、たまらなく愛おしく思えるのだ。
若さは全てでは無いし、その中にある矛盾や混乱、暴力、絶叫が全てでは無い。違法性や犯罪性なんかクソ喰らえ、と言う姿勢が良い訳でもない。ただ、それを情熱的かつ冷静に見つめる独特の匂い、感覚が愛おしく思えるのだ。別に悪い事しろとか、ちょっと悪い事する位何だとか、そういう事を言いたいんじゃなくて、情熱と倦怠が同居するその一見矛盾した感覚が好きなのだ。それに速度が伴えば、言う事は無い。
…と言うような事をこの詩を読み返して、改めて実感した次第である。この詩は私にとって、実に気持ちの良い詩である。速度、混乱、その二つが絶妙に混じり合って、絵の具が新しい色を出す瞬間のような期待と不安、出所のわからぬ倦怠と歓びが入り乱れている。実に素敵な作品だと私は思うのだ。匂い、色、感情が鮮やかに、それでも少し色褪せて霞んだ感覚が、俺の中で膨れ上がって行く。いてもたっても、いられなくなるのだ。