現代詩をそんな読み方してないゆえに
KETIPA

わかったことがある。

これまであらゆる現代詩を読んでいても、言語的な感動をしたことがない。

そのことが、自分の作品にある致命的な欠落(文字の連なりに付加価値を与える要素)の正体であり、そしてその、詩のバックボーンを支える言語的な感動を、どうにも理解できない。


ここでいう言語的な感動とは、つまりその詩で表現されている内容そのものに感動すること。いろいろなキーワードや言葉を用いて、一つの詩でなにかしらのこと、たとえば光景、風景、心情、叙情、なんでもいい。それらのことを読み手が感じ取って、それを見事に表現しているだのなんだのという(んだと思う)。そこには多分に個人的な経験が反映されることも多いだろうと思う。思うことしか出来ない。こんな内容をこんなに美しく、悲しく、○○しく、書き出している、だからすごい、ということを、感じたことがない。関係ないけど音楽に対しても同じで、歌詞にこめられた意味などに感じ入ることはない。これまでずっと、感動の理由を知らないまま感動している。


そもそも現代詩に親しみ始めた時も、思いがけない言葉のつらなりに対して面白さを感じて、読者になり、地味な書き手にもなった。それでも今でも、言葉で表現された事項に対して別に感動していないということは変わっていない。むしろ強化されていると思う。その代わりに、言語化できない震えのような感動を味わうことが中心になってきた。

そういう、何がいいのかわからないけど、説明はできないけど、脊髄をぴりぴりさせて、冷や汗をかかせるような詩が、どうもある。最果タヒさんの詩が特に、そういう感情を引き出す。それとも単に、実際にはみんなそんな感じだけど、それを知れないだけかもしれない。でもそれなら、そんなに簡単に感想や評論ができるような気がしない。


もしかしたら、単にまだおれが未熟で、その内的な感情を文章化することが出来ないだけなのかもしれない。それでも少なくとも、詩がどんな内容で、このことをこう表現している、という解釈が、感動をあらわしえるとは思えない。だから例えば、文学極道で行われている批評、解釈をみても、この詩のどこからそんなこと読み取れるのかな、と言う気分に襲われる。全編そんな感じだから、参加しようかと考えてみたことはあったけど、実行はしなかった。おそらく詩の読み方、書き方が全然違う人たちが集まってる場なんだと思う。それは現代詩フォーラムでも変わらないんだけど、また違った意味で。


この感じが共有できる気はしない(言語化できないから)。共有するつもりも別にない。ただしせめて、そういう感動を味わえる詩とそうでない詩の何が違うか、どこが違うかを、自分に説明できない限り、自分自身でそういう感動を引き起こす詩はかけない。その違いが手法なのか軸なのか、あるいは両方なのか、どちらでもないのか、それくらいは意識できしないと、それを心がけることすら出来ない。だから満足がいく詩にならない。この言語化できない感動を言語化する必要があるのか。


表現したい情景や心情などない。表現を通して情景や心情、そのほかの説明可能な何かを浮かび上がらせること、それ自体が目的ではない。かといって表現の新奇性を追い求めるつもりもない(それはすでに行き詰まった)。それらはおれが現代詩に感じる感動の要素ではない。それは単なる解説であり解釈であり、クラシック音楽における「この作曲家はこれこれこういうことを表現しようとして」という類のものと大差はない。そんなこと知らなくても読み取れなくても、それでも心を奮わせるものしか、今のところ受けつけていないし受けつけない。そしてもしかすると、こういう読み方をしている人は多くないのかもしれないと感じている。実際のところはわからない。



もうちょっとで完全に迷う。意味がわからない。理由などどうでもいい。感動できればいい。でもせめて感動している理由がわからないと、感動できるものがつくれない。先人はとっくにそんな議論を済ませているのだろうか。


散文(批評随筆小説等) 現代詩をそんな読み方してないゆえに Copyright KETIPA 2009-11-01 21:13:06
notebook Home 戻る  過去 未来