覚えていない記憶のことを
因子

あたりまえといわれそうで投稿をためらっていた文章。








母は、私が幼いころ、産まれたときのことを覚えていたと言う。
幼い私は、そのときのことを、おみずがざばーってなったの、と表現したという。
ふーん、へぇー、と私は言う。
三島由紀夫も自分が産まれたときにみた盥の縁を覚えているとか書いていたし(たしか)、そうなのかなって思う。
だけど同時に、でもそれはちっちゃい私の嘘かもしれないなとも思う。
幼稚園くらいのときの私には虚言癖があって(いや、虚言癖は中学生くらいまで続いていた)、幼稚園で書くえにっきにいつも嘘を書いてた気がする。
友達がひとりもいないのに、毎日みんなとあそんでたのしいわたし!を母にみせて、たのしかったのよかったね、たのしかったよと、ニコニコしていたように思う。
私の世界には、わたしと、うそっぱちの神様と、母親しかいなかったのだ。
(カトリック系の幼稚園だったけれど、イエズスさまの偉業の数々があまりに現実離れしているので、ちいさな私はキリストという人物はフィクションなんだと思っていた。)
だけどそんな記憶も曖昧なので、もしかしたら私は友達がたくさんいてよくしゃべるいい子だったのかもしれない。
それで、おみずがざばーとなったのを覚えていたのも本当なのかもしれない。
なんにもわからないのだ。
母が言う記憶のひとつひとつを、沼に手を突っ込んで掬い出すようにして手の中へおさめるけれど、私はほんとうはなにもないところへ両手を差し入れて、あたらしく記憶を創造しているのだと思う。
ほんとうは何一つ覚えていない。うまれたことも生きてきたことも。
ただここに私がいるということは、いつかどこかで生まれて、生きてきたってことなんだろうと思うだけだ。





「思い出は全部記憶しているけどね、記憶は全部は思い出せないんだ」
(森博嗣『すべてがFになる』より)





この手には、詩を書くということは
記憶にないことを思い出すことと
同じ感触がする。


散文(批評随筆小説等) 覚えていない記憶のことを Copyright 因子 2009-02-11 15:59:34
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