影のない犬
木屋 亞万
水色ストライプのひさしの向こうに
ぼんやりとした青空が広がっている
目の前に広がる防波堤
空の青が海の青を映したものなら
空気は随分とくすんでいる
陽射しに透けているこの小屋根の方が
何倍も明度の高い青であると感じる
犬は色がわからない
軒先ではぁはぁやってるこの犬も
空と海を熱心に眺めているが
その色の純度は知覚できていないはずである
それでも毎日店番をしているということは
空と海の吸引力は人間に限ったものでないということだ
かもめが飛んでいる
漁のおこぼれが目当てらしい
あるいはかもめも魚を取るつもりなのか
とにかく漁船の辺りに集まっている
日が強く照ってきた
餌が干からびる前に食べてしまおう
命を殺さなくとも肉を食える自分の立場が
かもめよりも上なのか下なのか
最近よく考えている
この犬も最近食欲がなくなってきた
犬は飼い主に似るというが
飯を食う量まで似るものなのか
胃を全摘してからというもの痩せていく一方の私
腫瘍マーカーとやらが上昇しているらしく
この頃は貧血の症状がひどい
そんな私の前でゆっくり咀嚼しながら犬は飯を食う
自分はこれまでの人生で生命の誕生も死も見たことがない
自分は捨て犬だから親のこともよくわからない
自分の兄弟がどれくらいいるのかすら知らない
自分が子どもを生むことも経験しなかった
自分の周りの生命はどれも目の前では死ななかった
自分の世界に現れるものはすでに生命だったものばかりで
ずっと生命のままだった
私が死んだらこの犬は困るだろうかと考える
今の私にとって守るものはこの犬くらいだ
小さな釣具屋を細々と営んでいたが
近所にできた大型チェーン店に負けて四年前に店を閉めた
店を続けるよりも貯金を切り崩しながら生活するほうが
赤字が少ないことがわかったときに
私の仕事はなくなった
店をやめてから爺さんは元気がなくなった
まあ元々元気もりもり人間ではないから
大して差がないような気はするのだが
生気というのか精気と書くのかわからんが
とにかく今にも死にそうな生命になった
私を隣家に預け、入院していたくらいだ
自分の人生において最初で最後の死人は
おそらく爺さんだろう
それにしてもどちらが先に逝くのだろう
今朝、自分の影が海に向かって走っていくのを見た、爺さんの影と一緒だった、連れ添ってというよりもどちらが先に目的地に着くか競い合っているような走りっぷりだった、二人競い合うようにしてこんな風に走るのは何年ぶりだろう、ほら、すぐそこにかもめがたくさん飛んでるよ爺さん、あの船に乗っているのは爺さんの同級生じゃないか、確か最後まで店に来てくれた唯一の常連さん、跡継ぎがいないから一人で作業してるんだな、大変そうだ、ねえ、あの海と空の境にある線を越えると空へ行けるんだろうか、この海はとにかくでかい三途の川かもしれないね、爺さん、じいさん、俺は最後まで青がわからなかった、わかろうとしたんだけどなあ
ある朝、犬の影がなくなっていることに気付いた
ついに目までおかしくなっちまったと思っていたら
その夜、犬は静かに死んでいた
知り合いの漁師の話によると
海を犬の影が走っていくところを見たのだそうだ
私の影も一緒だったが、彼の漁の手伝いをするために立ち止まったらしい
彼は不思議な体験だと思いながら、私の影に手伝いを頼み
仕事を終えたので影を家まで送り届けてくれたらしい
そうか、今朝から私の影もいなくなっていたのだ
犬のほうに気を取られて気付かなかった
これから本当に一人だ
夜だ
ふと見上げた空にはたくさんの星があって
黒い犬の影がその隙間を流れていったような気がした