「存在の彼方へ」を読んでみる
もぐもぐ
私が愛読している本の一つに、フランスの哲学者エマニュエル・レヴィナスの「存在の彼方へ」という本(講談社学術文庫、合田正人訳。1999年)がある。
かなり異様な文体で書かれた著作で、明確な言葉の定義もなしに不意に断言調の叙述が反復的に積み重ねられて、400ページ近くにも渡る論述になっている。同じようなことが違う主題の下、複数回顔を出す上、それぞれの主題が極端に密接に重なり合っているので、その理解は素人には困難を極める感じである。
訳者あとがきの解説によると、文自体も「残響の語り」「バロック的」とも形容された異様な叙述であるらしく、また内容として結論の不可能性を強調していることもあって、「砂嵐の書物」「暴風雨のごとき書物」と称せられたらしい。
正直、何を言っているのか、何処に論理性があるのか、見当もつかないような箇所も頻出する。例えば前書き部分にはこうある。
「存在すること、存在者、更には両者の「差異」からなる接合関係をかき乱すような例外ないし逸脱を、主体のうちに見出すこと。主体の実体性のうちに、「唯一者」としての自我がはらむ堅固な核のうちに、自我の唯一無比なる自同性のうちに、他者の身代わりを認めること。この献身を、意欲に先立つ献身、超越の外傷への仮借なき暴露とみなすこと。暴露を受任として捉え直し、受容性、受苦、有限性以上に受動的な受動性として、これらの受動性とは異なる様態の受動性としてこの受任を考えること。世界に内在する実践ならびに知を、引き受けることのできないこの受任から派生させること。存在することの彼方を語る本書で主張されたのは以上の諸命題である」(p9)
はっきり言って、まっとうな日本語の文章とはとても思えない、というのが、最初読んだときからの変わらない印象である。訳が良くないのか、それとも余程特殊な前提に立って議論をしているのか、そのどちらかと思った。(なお、訳者の合田正人という人の著作も読んでみたが、この人自身もかなり込み入った難しい議論をする人のようである。)
第一章は梗概部分に当たっていて、全体の論述の大筋がここで分かるはずなのだが、この一番最初の部分の論述もかなり自由奔放というか、ごく当たり前の思考回路や明確性を期待すると、裏切られてしまう感じである。
出だしからいきなり、「超越・・・の意味するところは、・・・存在することが、存在とは他なるものへと過ぎ越すという事態を措いてほかにありえない」という定義があり、その後には、「それにしても、存在とは他なるものとは一体いかなるものなのか。」「過ぎ越すという事態もまた実に不可解なものだ」などと、説明抜きで摩訶不思議な問いが立てられている。(p20-21)
2段落目では、この過ぎ越しについて「存在するとは別の仕方で」「それは存在しないことでもない。存在とは他なるものへの過ぎ越しは死ぬことではない」といった断定が述べられ、「存在と存在しないことが相互に証明し合ってつむぎ出す思弁的弁証法でさえ、あくまで存在を規定するものにとどまる」「存在を排斥しようと努める否定性も、存在を排斥した途端、存在のうちに没してしまう」などと述べられている。(p21)
3段落目では、「このように、超越の問題は、存在するかしないかという二者択一とは別の問題である」「存在とは他なるものという差異はほかでもない、彼方の差異であり超越の差異なのだ」とされ、「ここで、直ちに次のような反論が提起されよう。・・・「存在するとは別の仕方で」という表現は不自然な省略語法の所産に過ぎず、この表現において、存在するという動詞は単に省略されているだけではないのか。」と自問自答される。(p22)
そして、「とすると、存在するという動詞によって意味されるものは、一切の語られたこと、一切の思考されたこと、一切の感覚されたことにとって不可欠なものであることになろう。」「このように、存在することは、存在することへの不屈の固執として遂行される。」・・・などと話は続いていく。(p22-23)
このような論理展開に一読しただけでついていくことができるのは、かなりのつわものと思われる(なお、以下で引用する議論も同じように分かりにくい。ただ、上に死についての言及が若干現れているように、存在すること(to be)と生、存在しないこと(not to be)と死は、ほぼイコールで論じられているように思われ、「存在すること」とか、或いは後に出てくる「内存在性」といった言葉は、哲学徒でない者が読む場合には、「生きること」という言葉に置き換えて考えても良いのではないかと私は勝手に思っている。読みにくい場合には適宜置き換えてみて欲しい)。また、引用部分以外にも、どのような論理的つながりにあるのかを特段明記しない別の議論が様々に差し挟まれており、文意を辿っていくのはとても困難である。第一章は梗概部分だからということもあるのだろうが、二章以降でも似たような感じで論述が進められており、これが400ページ近く続くのである。
初めて読んだときは、苦痛以外の何ものでもなかったし、眩暈がした。何一つ主張は汲み取れなかった。
レヴィナスについて論じた入門書等を読んだところ、どうもレヴィナスの議論には、ハイデガーが深く関係しているらしい。また、時代的にも、フランスの哲学に対するヘーゲルやハイデガーの影響が圧倒的であった時代の哲学者である。第2段落の「思弁的弁証法」や「否定性」は、ヘーゲルの論理学冒頭における有名な叙述「無→有→成」の弁証法を指したもので、3段落目の議論は、存在者と区別される「存在」についての問いを哲学第一の問いとし、「言葉は存在の住処である」としたハイデガーの哲学を念頭に置いた論述であると思われる。
こういう意味では、いかにも哲学者らしく筋を組み立てているということかもしれない。しかし、なぜ、何のために、どういう見通しで、こうした議論を始めるのか、一切説明がない時点で、文章の読みやすさとしてはかなりの欠陥があるだろう。
ただ、私がこのかなり苦痛な書物に拘って何度か読んだのは、その次の部分の展開が、とても意外なものであったからだ。
まず「存在性とは内存在〔利害〕である。存在すること、それは内に存在すること〔利害関与〕である」という定義がなされ、「とはいえ、自分が不完全な仕方でしか存在を否定し得ないことに驚く<精神>、存在しないことをも支配する存在ゆえに無意味なものと化した自らの死を甘受する人間、こうした<精神>や人間においてのみ、内存在性は姿を現すのではない」として、ヘーゲル等の先行哲学の立場に対する反意が表明される。そして、「そうではなく、内存在性は存在者の努力・傾動という肯定的な事態に他ならない」という別の立場が提示される。(p23)
「努力・傾動」はスピノザの言葉で、「肯定的」(ポジティヴィテ、ポジティヴィテート)はこれも哲学上の術語であるようなので、これまたいかにも哲学的に組み立てられた論述なのだろう。厳密な意味合いは私には理解しかねるが、全体として、「存在すること、利害関与」の意味は、哲学的な観想や認識の対象というよりもむしろ、現実的な力として現れる、というようなことを言っているのではないかと思われる。ここまではいかにも哲学の議論である。ところが、次の行に、突然このような文章が現れる。
「エゴイズム同士の全面的闘争のうちで、アレルギー症のエゴイズムの多様性が戦争として現れるなかで、内存在性としての存在の我執は文字通り激化される。・・・存在することは戦争という極度の共時性なのだ」(p23-24)
場面はいきなり理論哲学のレベルから戦争という極限的な事態へと転換した。
この転換は私にはかなり衝撃的であった。仮に、ここで先までの理論哲学的な論述が延々続けられていくだけであったのなら、哲学を勉強しているわけでもない私に、この400ページもの大著を読み通すことは到底出来なかったに違いない。ところが、ここで、その理論哲学的な事態が、一気に戦争という現実具体的な事態に結び付けられた。一体存在についての抽象的な問いが、この後この戦争という事態との関係でどのように展開していくのか、この事態をどのように解きほぐしていくのか、私は知りたくなった。それがこの苦痛な、理解しがたい著作を、繰り返し私に読ませる原動力になっている。
この戦争についての叙述は、ここでは僅か3ページほどしか続かないのだが、そこでのレヴィナスの思考はある意味かなり過激である。
そもそも、先の「存在=戦争」という定式化は、文字通り取れば極論以外の何ものでもない。様々な利害関心を抱いている私たちのこの生そのものが、自動的に戦争に繋がるというのである。
尤も、レヴィナスは「戦争」という言葉を、所謂国家間戦争よりはもう少し抽象化された意味で用いており、普通に思い浮かべる「戦争」とは、述べられていることはやや異なっていると思われる。後ろで、ホッブズの「万人の万人に対する闘争」といった言葉が出てきていることから、ホッブズ的な「闘争」という言葉が踏まえられていることが分かる。イメージとしては、「生存競争」とか、「暴力による闘争一般」といったような意味合いであるのだろうか。(「生きることは戦いである」と置き換えてみると、イメージが湧くかも知れない。)
とにかく、このような戦争について、以下のような論述がこれに続く。
まず、「存在することは、平和によって、存在することとは他なるものに転じるのではなかろうか。<平和>のうちに君臨すると考えられている<理性>によって、諸存在同士の直接的衝突は一時中断されるのではなかろうか」「このような理性的平和、忍耐、直接的衝突の延期は、計略、単なる仲裁手段、政治でもある。万人に対する万人の闘争が−交換ならびに交易と化すのだ」と述べられる。(p24)これは、闘争の防止についてのホッブズ的な立場に対する言及であると思われる。ホッブズは、誰もが己の利害を突き詰めて理性を働かせていけば、自然と、絶えざる闘争よりも、闘争を中止するような取引を行う方が合理的であることに気づくはずである、というような見方をしていた。
しかし、レヴィナスは、このような立場についてやや辛辣なコメントを加えている。
「とはいえ、存在することへの固執、内存在性の我執がこの譲歩によって抹消されるわけではない。内存在性がいま強いられた譲歩は、必ずや未来において相殺されるからだ」「超越はまがいものの超越でしかなく、平和はぐらついている。平和は諸存在の利害の言いなりである」(p24-25)
「交易は戦争よりも善きものであるという理由で、<平和>のうちには<善>がすでに君臨しているという理由で、戦争における存在することと平和における存在することとを区別するとしても、この相違は究極的な相違ではないのではあるまいか。」(p25)
取引というのは等価交換であるから、現在得をすれば未来で損をし、現在損をすれば未来で得をするというのが原則である。(勿論実際の取引がこれほど単純なわけもなく、例えば経済取引を考えれば、マルクスが指摘するように、名目上の等価交換において実際上の価値の差が生じているからこそ利潤が発生するのだが、その辺の細かなことにはレヴィナスは触れていない。あくまで理念上、取引というのが互恵的なものであるという部分から考えているのだろう。)レヴィナスは、理性によって平和的取引が行われるようになったとしても、それは内存在性の我執を保存する限りにおいて、戦争の場合と本質的にはなんら変わらないものと考える。
この認識はある意味極端なものであると私は思うが、理屈上は、理性によって構築された平和は、理性がそれを崩すことを要求する場合には崩されうる、ということになり、その平和が永続するものではありえないというのは一応納得がいくところでもある。(生きることが戦いであるのなら、暴力にせよ、取引にせよ、何らかの形で人々は常に争い続けるのだ。)
とにかく、レヴィナスは、取引も戦争も本質上は同じものである、という極限的なレベルでものを考えている。
現実の政治や経済に関する考察を一切省略して、先行する哲学、形而上学の言葉で、戦争やそこからの脱却を考えていくことに、どのような意味があるのだろうか。
存在=生であるとか、生=戦いであるとか、取引でも暴力でも戦いには変わりがないとか、その骨子だけを取り出してみると、レヴィナスの議論はかなりヘーゲル的というか、本質主義的である。その辺りが、レヴィナスをして、枝葉末節を無視した極限的なレベルでの議論を展開させることになっているのかもしれない。この意味では、レヴィナスの議論はある種の「神話」であり、形而上学である。
素朴なのか、本質を掴んでいるのか、いずれなのかは私には判じかねるが、こうした極限的な思惟は、特に宗教的な思惟において特徴的なものであると思われる。個人の目から、個人の生き方の観点から社会を判じる場合には、その思想は、多かれ少なかれある程度の宗教性を帯びることになる。また、レヴィナス自身、ユダヤ教神学の手ほどきを受けたこともあったようなので、半ば自然と宗教的な側面からの思考が入り混じっているようにも思われる。
前書き部分に引用した、「献身」や「受苦」と言った言葉も、宗教的な言辞を思わせる。前書きの最後にも、このような言葉がある。
「いずれにせよ、存在に感染せざる神の声を聴くこと、それは、形而上学、存在-神学のうちで忘却されたとみなされている存在をこの忘却から引き出すことと同様に重要で、かつそれと同様に脆い人間の可能性のひとつなのである」(p9)
所謂ハイデガーの「存在忘却」に関する指摘に触れながら、自分の議論がそれと並んで、宗教的・神学的に重要な試みであることを述べているのだろう。
ヘーゲルもハイデガーも若い頃には神学の勉強をし、聖職者だか神学者になることを志していたということだから、彼らの議論が宗教や神学の領域において持っていた影響力は割合大きなものだったのかもしれない。ユダヤ教の神学とキリスト教の神学がどのような関係にあって、どのように影響を与え合っている(いた)のかも、私は知らないが、レヴィナスがそれに対して別の議論を組み立てざるを得なかったのには、それ相応の理由があったのだろう。
聖職者でも神学者でもない私が、そうした宗教的、神学的な議論を読んで一体どうなるのだろうか。
個々人の生と、戦争を直接に結び付けて考えることの出来るような議論、そうした議論は、明示的にであれ黙示的にであれ、何らかの宗教や道徳的な立場に基づいた議論にならざるをえないものと思われる。政治家でも、軍人でもない者が、自分自身の生と戦争について考えようとする時には、どうしても一歩、そうした宗教的・道徳的な議論に踏み込まざるを得ない。そうだとするならば、どのような宗教道徳の理論化(神学)から生まれてきた議論であろうと、それに触れてみることは、生と戦争の問題を考えるにあたって何らかの示唆を与えてくれるのではないだろうか。
そうしたほのかな期待を抱いて、私はまだこの本を読み続けている。