男の走る距離は、
ブライアン

 白布温泉から急激に下る坂道を男は走っていた。全長5kmの第6区。男の肩にはピンク色の襷がかけられている。男の走る周囲には葉の落ちた木、杉の木以外目に付くものはなかった。男のペースが上がる。前を行く選手の背中が見える。その選手の視線は第7区の先にあるゴールを見ていることだろう。だが、男が見ていたのは第6区のゴールだけだった。男には襷をつなぐべきアンカーがいなかった。このレースでゴールすることはできない、と男は知っている。
 男は前走者の苦しみに歪んだ顔を思い出す。穴という穴から体中の水分を放出させていた。短い手を精一杯突き出し襷を渡す。お願いします、と前走者は言った。いったいこの襷をどうすれば良いのだろう、と襷を受け取った男は思う。ゴールまで運べない襷を男は握る。男の息があがる。急激な下り坂は足に極端な負荷をかけた。男は重くなりつつある足を摩った。冷えていた。併走する川からの冷たい湿気のためだろうか。男は、体が動かなくなってしまいそうだ、と思う。事実、男の腕、肘から手の平にかかる一部分が、痺れはじめていた。男は、止めてしまおう、と思う。ゴールができないのだ、この区間を走りきっても意味はないだろう、と。
 下り坂から平坦な道に入ると、男の足は悲鳴をあげた。前半ペースが上がりすぎたのかもしれない。前を行く選手の姿が離れていく。男は、もう、本当に止めてしまおう、と思う。足が重かった。呼吸がつらかった。走ったところで意味なんかないだろう、と。だが、男は走り続けた。考えすぎたのかもしれない、と男は思う。両手を口元に運ぶ。荒く乱れた息は温かかった。その手で冷えた体を摩る。腕の力を抜いて、だらりとたらす。姿勢を正す。残り2kmだった。覚悟ができた。男は走り続ける。
 男は襷を握ったまま地面に座り込んだ。肩で息をする。後ろから来る走者がアンカーに襷を渡す。その光景をじっと見ていた。体は熱かった。汗が噴出してくるのが分かる。道を挟んだところ、チームメイトが男を呼ぶ。男は声のほうを向いた。笑う。男は手に握った襷を高く掲げる。透き通る空だ。チームメイトも同じようにこぶしを握り手を空に掲げた。
 
 表彰式の始まりのアナウンスがスピーカーから聞こえてくる。男たちは会場を逃げ出す。拍手の音が会場から聞こえた。チームカラーのピンク色のジャージに着替えた男たち。辛いラーメンば食べにいかね、と男は言う。会場の横に並んだ自転車に乗り、男たちは街へ走り出す。
 


散文(批評随筆小説等) 男の走る距離は、 Copyright ブライアン 2008-08-30 18:53:32
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