ショートショート/水のなかのガラスのように
いすず

白のガーベラには黄のカンパニュラ、グリーンのつぼみに甘いリリオペ・・・・・・

いつもの電車に揺られると、今日はほっとする。
今日は一緒にいるから。とうとう、正式に二人で決めて、その報告への帰り道。
手元のブーケ、あるかないかでも、清々しい美しさと香りに包まれて、京子は親元へ帰る。

これは、とある街の物語。

公園の奥へと入ってゆく。しんとしたなめらかな空気に、まつわる木漏れ陽。
ふたりは木陰で休みながら、中央の噴水のようすを眺めみる。

「ねぇ、大事なはなしがあるの」
男は彼女を見ながら、優しく髪をもてあそんだ。
風がさざめいている。
「生き物って、水へ還るとかいうよね。コウもそうかな?太古の祖先がそこから出て来た、生命の源へと」
「何の話なんだ?」
「わたし、そこへ還る気がするの」

彼女のおはなしは、ときに御伽話と見紛う。
唐突でとりとめもなく、根拠もないおはなし。
でも、そのとき、男・・・・・・紘一郎は、なぜだか、一笑に付せずに、じっと彼女を見守っていた。
「たいせつなおはなしなの」
たいせつな、たいせつな、ささやかな問い。
京子のひとみだけが、物語っていた。

わたしたちは、これから、何処へいくの。
これから、何処へ・・・・・・

ある日、いつもの待ち合わせ場所に来た紘一郎は、水中にきらきらするものを見つけた。
京子はそのへりにかがんで、茫然と空を見送っていた。
「ガラスかな、あの色は」
タイル張りの水のなかに、それを認めて目を遣ると、紘一郎は京子へ目を移した。
水中ではまだ、彼女からもみえるところで、きらきらとする光が点々と揺らめいている。
「わたしね、欲しいものがあるの」
いつもの御伽話のはじまりのようだった。紘一郎は、彼女に手を延べて、腰掛けていたあたりから
助け起こした。そのぬくもりが、切ない感情を呼び起こした。それは?と彼は訊いた。

「水中にあるキラキラしたもののように、欲しいものがあるの。それは、綺麗だけど、手に取っては
いけないと分かるから。でも、欲しいの」
頭の中で、クエスチョンマークをつけ始めた紘一郎の耳元に、彼女が、それは、あなたのことよ、と、
掠れるような小声でそう囁いた。
「何の意味だ、それは」
紘一郎は、聞き逃さなかった。いきなり、鋭い視線を向けた。
「分からなければ、いいの」
「よくはない」
紘一郎は、ぎゅっと手を握ったままはなさずに、京子の両手を自分の胸元に急に引き寄せると、怒ったように唇を合わせた。
京子は、目を閉じて、その荒いくちづけを感じていた。この、生命のもといのようなもの。
そのむきだしのいのちを感じるとき、彼女がどうしても感じずにはいられなかったこと。
彼女はちいさなくちびるの動きで、彼にささやいた。
根源的な不安ていったら、わかるかな。
どうしてそんなものが?
紘一郎が不審をあらわにする。京子はもういちど目を閉じた。

「綺麗なものはね、だいじなの。でもね、手に届かないもの、わたしにとっての意味は」
「それが俺ってことか」
「そうだとしたら?」

いつも、俺のことそんなふうに見ていた?
おまえこそ、手に入らない高嶺の花のように思っていたけどな。
コウはよくそういってたね、カラオケソングでもよく歌ってたし、わたしにもそういったから。
知っていたか、でも、おまえのことは初耳だった。

「水のなか」の「水」って、意味があるのか?
今の様子からヒントを得たの。
ああ、連想か。水へ還るとかじゃないんだな。
本当はね、こういいたかった。

ずっと、遠くにも近くにも感じてきたよね、わたしたち。いつも不安だった、いつかはなればなれになることを思うと。
あなたのことも、今なら忘れられる。でも、火傷をしてしまったら、もうあとにはさがれない。
コウをみてるとね、いつも火傷しそうなの。遠くにいても、近くにいても。・・・・・・ずっとそう、感じていた。

そんな恋は、愛じゃないというよね、不安だった、お友達はそろって、あなたなんかやめろというから。

紘一郎が、両手を腰に回して、京子を抱擁した。
かたい、熱い、抱擁だった。
京子の両目からなみだがこぼれた。

火傷したって、いいじゃないか。おまえとなら、俺は、構わない。俺が火傷したいのはおまえとだけだ。
出会ってからずっと、おまえだけ見てきた。

おまえだけ、見てきた。


紘一郎が真剣な口調で繰り返し語り、その言葉を聞きながら、京子ははげしくその胸の打つ力強さに打たれていた。

「いつかした、覚えてるか、水へおまえが還る話」
「ええ」
「俺にも聞いた、水へ還るかと。俺は、こう思っていた。おまえが還るというのなら、どこまでもおともしよう。
おまえが戻りたいというのなら、海原の中へだって。でもな、おまえのことは離さないからな、一生」

「一生?」
「忘れるなよ。今の話。二度としないぞ」
紘一郎の、真剣な眼が、笑っていた。

あの言葉を紘一郎が口にして、一周年目。
織姫と彦星とが出会った日、いつもの逢瀬に紘一郎がブーケをくれた。
「忘れてるわけじゃないな?」
「うん。でも、火傷なんかで告白するなんて、おかしな人」
「おたがいさまだろ」
紘一郎は、今でも、口ではけなすけれど眼では笑っていた。

京子は紘一郎の選んだ、シルキーホワイトとレモンとライムグリーンの花束のブーケを手にしている。
隣には、おなじ方角へ帰る紘一郎が、両眼をとじてうつむいて座り、片足を傾げるように組んでいる。
空に懸かる織姫と彦星とが、いちだんと輝いているのが分かる。
さっきも、ごくごくありきたりなけんかをしたけれど、
いつものけんかも、あの星たちが見守っているかもしれない。
いつか、どこかで出会っていた二人だと。


座席に背中を預け、目を閉じる。あの時のふたりの真剣さは、
今思うと、こっけいなほどだ。でも、あの時には笑い飛ばせずにいた。
彼はあの時も、変わらないまなざしをしている。
そう思いながら、ゆっくり、がっしりとしたその厚い肩に頭をもたせかけると、
気持ちのいいあたたかさが冷えた車内の空気で冷えた京子の首筋にもつたわる。
そのぬくもりは、気持ちいいほどに安らかだ。
聞こえてくるかすかな、規則正しい、折り目の正しい彼らしい呼吸。
紘一郎がしずかにねむっているのが、分かる。

今日は、もう少し、こうしていよう。

〜Fin〜




散文(批評随筆小説等) ショートショート/水のなかのガラスのように Copyright いすず 2008-08-05 22:23:51
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