無花果の花
亜樹
妹島が住んでいる家の庭には、大きな無花果の木が在った。
その木には無数の実がなっていたが、家主はそれを採りはしない。
まずいのだ。あれは。
ちっとも甘くなく、食感もどこかざらついて、そのくせ小さい。
鳥ですら、見向きもしない有様だった。
だから毎年、妹島はその実が生るのも落ちるのも朽ちるのも、それに任せていた。
花も咲かせず、実だけを作り、そのまま朽ちてゆく。
淋しい女のような木だと、常々妹島は思っている。
妹島がこの家に住むようになって、随分と久しい。
けれどもこの家は別に彼の持ち家と言うわけではなかった。
彼は、単なる下宿人に過ぎない。
彼が住んでいるのは教会だ。
おそらくは司祭が寝起きするための部屋で、妹島は生活している。
そもそものはじまりはそれまでこの家に住んでいた司祭が、腰を悪くしたことに由来すする。その司祭は近くに住む娘夫婦と同居することとなり、この家は一時無人となった。
しかし、人が住まねば、家は荒れる。
月に1度のミサの度、積もった埃を目にするのが苦痛になった司祭は、信者の一人であり、苦学生だった妹島に話を持ちかけたのだ。
家の管理をしてくれないか、と。
断る理由がある筈がなかった。彼はそれまで学校の小汚い寮で、5人雑魚寝をしていたのだ。
以来ありがたいことに家賃0のこの家で、妹島は暮らしている。
彼の通っていた学校は、この家からけして近くはなかったが、不満はない。まだ若い妹島は、この家に越してから、自転車をフルに活用している。
休日の朝、妹島は家の掃除をする。学友たちはそんな妹島を信じられないものを見るように見るが、『家の管理』という名目で住まわせてもらっているのだから、当然の義務だろう。
小さいながら、備え付けられている礼拝室の戸を開ける。光の中、埃が舞うのが見えた。
小さな部屋の奥には、真っ白なマリア像が置かれていた。
月に一度のミサの際、このマリア像が自分の母親に似ていると妹島に言った男がいた。
その男は妹島より随分と年上で、母親は既になくなっているらしい。
そういう風なことを、歳若い妹島に言うものは、それなりに多い。
けれど、妹島はこのマリア像を母親のようだと思ったことはついぞなかった。
彼の想像する母親とは、こんな穏やかな表情はしていない。
彼の母は、いつもくたびれた、疲れた顔をして、さもなければ眠っている。
布団の中で、丸くなって。
――彼女はいつも妹島を見ない。
礼拝堂の掃除を終えた頃、来訪者があった。
隣――というても、随分と離れている――のおかみさんが、夕べつくりすぎたおかずを持ってやってきたのだ。
おかみさんは、末の息子が他県の大学へ行ってしまった昨年から、こうして何かと妹島の世話を焼きにやってくる。
彼女は淋しいのだ。その淋しさを紛らわすため、猫の子を可愛がるように、妹島を可愛がるようになった。当然、息子が帰省した間は、一度だって妹島の家に来ることはない。
「やあどうも。ちょうど昼どきだし、あっためて食べるがいいよ」
「いつもすみません……」
「いいよいいよ。どうせ棄てるしかない残りモンだから。ありがたがらずに食べておくれな」
そういって笑いながら、おかみさんは肉じゃがの入った皿を妹島に手渡した。おかみさんのつくる煮物は、妹島の故郷のものより幾分か甘い。けれど、食べられないほどではないので、妹島はいつものように頭を下げ、それを受け取った。
満足そうにその様子を見たおかみさんは、不意に庭のほうを向いた。大きな、役立たずの木に、その視線が向けられる。
「ああ。今年もなったんだねぇ。また随分とたくさん」
「ええ。本当に」
「食べないのかい」
「食べられないんです。あれ。少しも甘かない。せめて花でも咲けば、心の潤いにでもなるんでしょうが」
「おや?知らないのかい。あれが花だよ」
「え?」
「花がそのまま実なんだ。あの木は。無骨で少々グロテスクな姿形だがね。咲かせるときには、もう生っているんだよ。もちろん綺麗じゃないがね」
それはそれで幸せだろうよ、とおかみさんは帰っていった。
残された妹島は、渡された肉じゃがをひとまず台所に置くと、再び礼拝室の戸をあけた。
涼やかな風が吹く。無花果の実が、その風でまたニ三落ちた。
妹島は庭に出た。その無花果の中から、なるべく綺麗なのを選ぶと、そっとマリア像の前に供える。
妹島の母親は多分、マリア像よりも無花果に似ていた。