雨水の日の夜のこと
右肩良久

 雨水の日の夜、眠りに落ちようとしていたら、部屋の床から正体のない桃色が霞のように立ち上ってきました。それがそのまま微細な粒子になって天井へ上り、逆さに降り積もってゆくのです。
 花のような匂いがしきりにしてくるのですが、何の花の匂いかはわからないし、匂いの出所もはっきりしません。それにしても天井はふわふわしたような、さらさらしたような、とらえどころのない桃色を降り積もらせて、段々こことは別の土地になるのです。
 しばらくすると、その土地の何カ所かがむずむずと動き始めました。見ていると数本の蓮が芽を出し茎を伸ばし、葉を広げ花を開かせるのです。そして萎れて種をこぼす、種から新しい芽が出てまた花を持つ。それが輪唱のようにあちこちで繰り返されるのでした。
 気がつくと葉や花々に囲まれ、すっきりと背の高い菩薩が立っています。宝冠宝珠、白の袈裟、足下へ真っ直ぐに流れる瓔珞。それが炎を立たせる白い和蝋燭のように、しっかりと形を保ちながら上下に揺動し、やがて歩き始めます。こちらから見て逆さのことですから、はっきりとお顔の様子もわかりません。歩くにつれて遠ざかるようで逆に近づき、近づくようでどんどん遠ざかるのです。視線ではなく意識だけで僕は彼を追い、また引き離され、ただその距離に心地よく翻弄されるのでした。
 ブンと音がしてインバーターのエアコンが作動しました。瞬く間に起こった対流が天井の土地を吹き払い、その総ては攪拌されて、見慣れた部屋の構図に溶解してしまいました。
 僕の意識もほどなく眠りの蔓に絡め取られ、すうっと立ち枯れていったのです。この話はこれで終わりです。


自由詩 雨水の日の夜のこと Copyright 右肩良久 2008-03-06 22:25:16
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