批評祭参加作品■怠惰な物差し ——あるいは違犯と視線について
岡部淳太郎

 個人と社会の関係性を考える時にどうしても気になるのが疎外の問題だ。気になるというよりも、個人的にはぬきさしならない命題として私の頭の中に長年こびりついてしまっていると言った方が良い。恥ずかしい話だが、基本的に社会生活というものが苦手で自ら進んで群衆の外に身を置きたがる悪癖が私にはある。だから、どうしても社会から疎外された個人という問題が気になってしまうのだ。
 筆者の個人的な話はこれくらいにして先に進もう。いま私が考えているのは「違犯と視線」ということだ。違犯とは平たく言えば社会からの逸脱であり、視線は逸脱したものを眺める人々の眼差しということで、この二つが合わさった相乗効果によって個人は社会から疎外される。このへんの構造を少しばかり考えてみたい。
 違犯という言葉を辞書で引くと、「法令にたがい、罪を犯すこと。法を破ること」(『広辞苑 第二版補訂版』)と書いてある。この定義に従うと法律に抵触した者、いわゆる犯罪者のみを扱うということになるが、これだけでは私が考えている問題をカバーするには足りない。ここではそれを、前記の定義に加えてかなり大ざっぱに「社会の秩序やその空気を乱す、またはその恐れがあると考えられる者」として論を進めたい。
 世の中には数え切れないほど多くの人間が住んでいて、その個性はそれぞれにばらばらで千差万別だ。そのばらばらな個人を束ねるのが社会というシステムであり、それを十全に機能させるために法律や常識といったものがある。人が日常を生きるということは社会の中で生きるということであり、個人の力に限界がある以上ほとんどの人は社会の中で社会のルールに従って生きることを選ばざるをえない。より正確に言えば、幼い頃から社会の中でまっとうに生きることを周囲から教育されて育つことで、そこにモラル感や人が先天的に持っている自己防衛本能などが働くことによって、社会の中でまともに生きなければならないという意識が育てられていくのだ。だが、最初に書いたように人の個性は千差万別であり、時に社会の枠からはみ出した個性を持つ者が出てこざるをえない。そのような突出した存在が現れるのを社会は望んでいない。社会の中の一構成員として過不足なく生きるのに成功している人たちも、そのような存在を望まない。というより、疎ましく思ってしまうようなところがある。何故なら彼等はそれぞれ独立した個人でありながら、いっぽうでは社会に溶けこんで十全に生きているという時点で社会全体の意志を代弁する者になってしまっているからだ。こうして突出した存在は社会から疎外される。精神的にも物理的にも疎外されて、後にも先にも行けない状態になってしまう。
 ここで言う「突出した存在」とはすなわち存在そのものが違犯であるような人間、または意識してか無意識のうちにか違犯としての部分を抱えてしまった人間のことである。その違犯とは先ほど挙げた法に背くことだけに限らない。人より行動や思考が鈍かったり、何らかの病気に罹っていたり、背が低い醜い容姿をしている等の身体的特徴であったり、特異な趣味嗜好を持っていたりと、およそ人間が持ちうるありとあらゆる「個性」が挙げられる。言い換えれば人は誰でも違犯者になりうるのだ。卑近な例を挙げると、知能に優れた者が学者たちの中にいても目立たないが、普通の人々の中にいれば「あの人は学者さん」ということで自分たちとは違う存在として見られてしまう。その時々で属する場所によって、優性は容易に劣性に転化しうるのだ。社会の中に数多ある小さな共同体はそれぞれに社会全体の縮図であるから、その共同体の意にそぐわない者は異端になってしまうし、逆にその個性が共同体の質と似通ったものであればその心配もないということだ。私自身も経験のあることだが、普段の近所づきあい等においては「詩を書いている変な人」という目で見られていても、同じような詩を書く人々の集りに参加すればそのようなこともない。むしろ能力によっては賞讃されることすらある。それと同じことだ。
 このように高度に複雑化した現代社会においては、誰でも違犯者のレッテルを貼られる危険性がある。それぞれの個性が社会全体から見て特殊なものであれば、その危険はいっそう増していく。だからなのであろうか。種々雑多な個性が多く集る都市部であるほど人と人の間に距離感がある。それは他人の個性を極力眼に触れないようにしてやり過ごそうとする現代人特有の生活術であるのかもしれない(逆に言えば、その距離が小さい地域ほどそこに住む人々の個性に大きな隔たりがないということでもある)。そうして人々の間の関係性が希薄になってくると、他人を理解しようという気持ちが次第に失われていく。そうすると、他人を単純に図式化して便利な物差しで計ってしまおうという気持ちになるものだ。それは何も違犯者だけに向けられるものではなく、こういう仕事をしているからこうなんだろう、あの大学を出たんだから偉いんだろうと、社会的に見て有益と思われる特徴に対しても単純な図式を当てはめて見てしまう。ましてやそういう思考法が違犯者に対して向けられると、人々の視線は冷たいものにならざるをえない。他人について本当に理解しようと思わないから扱いはぞんざいになるし、他人のことを本当に考えようとしないから自らの心も人からの良い影響を受けずに狭い範囲に留まったままになってしまう。そこから現代社会が抱える人間の関係性を軸にした諸問題までの距離はほんの一歩であろう。
 他人に単純な図式を当てはめて、何となくわかったつもりになるのは罪深いことだと思う。そうして当てはめた図式は便利な物差しではなく、怠惰な物差しであるということに気づくべきであろう。突出した個性を持つ者を前にして「きもい」のひと言で済まそうとするのは、個性の異なる者を最初から締め出そうとする態度であり、そこに留まったままではお互いに成長は望めない。長い目で見れば自分にとっても非常に損なことをしているのだ。また、違犯という言葉の本来の意味に立ち返ってそれを法を犯してしまった者としてみるならば、「犯罪者」として白眼視することで彼が社会の中でやり直そうとするのを妨害していることにもなり、それが再犯を誘発することになるのであれば社会全体にとっても好ましくないだろう。
 言ってみれば、違犯者を違犯者としてのみ見ることは、彼を社会全体から疎外すると同時に、そのような視線を送る自分自身をも疎外させているのだ。いじめをした者はその自覚がないということがよく言われるが、それ以上に違犯者を疎外することによって自分自身も疎外しているということにほとんどの人は気づかない。そこに気づくことが出来ないのは、忙しい現代社会でその日一日を生きることにせいいっぱいの現代人の限界であるのかもしれない。だが、怠惰な物差しで簡単に規定できるほど人は単純ではないということぐらいは気づいてもいいだろう。誰もが多かれ少なかれどこかはみ出した部分を持っているのであり、違犯者になりうるか否かはそのはみ出し方の多寡でしかないのだ。結局、異常だとかおかしいとか言われている者は人よりも多くはみ出しているというだけで、本質的に考えればいわゆる普通の人との間に差異はない。現代という時代の複雑さは人々を等価にする。昔ならば富豪と貧者の間には明確な線が引かれていたかもしれないが、現代にはそのような明確な区分は存在しない。だから誰もが一夜のうちに英雄になれると同時に、違犯者として落ちぶれてしまうこともありうる。違犯者を眺める視線が怠惰であるのは、彼が違犯しているという「いまこの時」しか見ていないからであり、もしかしたら他にありあまるほどの美点があるかもしれないのに、違犯しているということのみによって彼の全人格を規定しようとするからだ。そのような視線を送っていた者が、違う時や状況の下では新たな違犯者となってしまうかもしれない。明日はわが身なのだ。人を図式化して見るのは真の理解ではなく、狭い自我への退行である。あまりにも多くの他者が生きている社会においてすべての見知らぬ他人への理解を望むことは不可能であろうが、願わくば、他人に対して礼を失することのない優しい社会であってほしいものだ。



(二〇〇八年一月)


散文(批評随筆小説等) 批評祭参加作品■怠惰な物差し ——あるいは違犯と視線について Copyright 岡部淳太郎 2008-01-29 21:58:17
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