批評祭参加作品■難解さへの接近
岡部淳太郎

 実を言えば、詩の現場で実際に書きつづけている人々にとっては、外部の者がどう言おうと関係ないのである。それぞれがそれぞれに優れた詩を書きつづけていれば良い。詩に向かう動機や信念は人によって様々であろうから、それに口を差し挟む必要もない。詩の書き手はいつもそれなりの敬意を持って詩に接している。その態度に揺らぎはないだろう。だが、時にどうしても詩の外部から向けられる声が気になってしまうことがある。昔からずっと言われつづけてきた「詩の難解さ」ということを始めとする、詩に興味を示さない人々の視線が気になって仕方がないことがある。
 詩という文芸ジャンルは、特に日本においては周囲の動向を無視して気ままに歩いてきたように見える。だが、それと同時に詩ほど外部の声を気にしてきたジャンルも他にないのではないだろうか。一般の読者を置き去りにしつつもいっぽうで彼等に色目を使う試みを何度も繰り返してきたのが詩であり、そのようないっけん矛盾しているとも取れるような心理は詩のアイデンティティの不安定さを表しているようにも思える。いわゆる「難解な詩」がいくつも書かれるいっぽうで、幾度もわかりやすさへの接近が試みられ、押韻定型などの古い源流へ遡ろうとする動きがあった。詩は前に進もうとしてもなかなか進めずに、何度も足踏みをしてきたようにも見える。そうまでして詩を立ち迷わせている心理とはいったい何なのであろうか?
 ひと口に詩といっても、その適用範囲を思いつく限り大きく取ってみれば、詩という名の下に様々な形態のものが表われてくる。一般人にとってもっとも親しみのある歌謡の詞、わらべうた、短歌や俳句などの伝統的な短詩定型、あるいは漢詩、あるいは宗教的な祈祷や呪文の言葉も詩であるかもしれないし、「おまえは詩人だな」と言う場合や日常生活における抒情的な場面での「詩」もあれば、近代詩や現代詩もある。このように詩という言葉が示す範囲は非常に広く、それは詩の守備範囲の広さを示すと同時に、他方では詩の立場の危うさ、詩の不安定さを示してもいる。それらひとくくりに「詩」と呼んでしまえそうな様々な小ジャンルの中で詩は揺らいでいる。また一般の人々の方にしてみれば、別に現代詩でなくても詩を享受する方法はいくらでもあるから、あえて小難しいイメージのある現代詩になど近づこうとはしない。他に取替え可能なものがごろごろ転がっているのだから、手軽に入手出来る「その他大勢」を選ぼうとするのはごく自然な成り行きであると言える。ひとつのジャンルが果てしなく細分化し複雑化するのは現代社会の常であるが、日本における「詩」という概念はとりわけそれが著しい。現代詩はそれらの同じく「詩」と名づけられた隣人たちと肩を並べて、いささか居心地の悪い思いをしているように見えてしまう。
 詩のこうした曖昧模糊とした感じが人を詩から遠ざけると同時に、詩の自立をさせにくくしている。どうしても外部の声を気にしてしまうのは詩がマイナージャンルであるがゆえなのかもしれないが、そうして外部の声を気にしつづけることで、よりいっそう詩は不安定になっていっている。他者の視線を考慮に入れることが自立を阻んでしまっている。たとえば「わかりやすい詩」とはいったい何であろうか? 単純に言えば、詩に関係のない一般の人々であっても読めばすぐに了解出来る散文的な文脈で書かれた詩のことであろう。一種の読者サービスと言ってもいいかもしれないが、サービスとはいつもオプションであるべきであり、サービスすることそのものが本意であってはいけないと思う。わかりやすい詩がいけないというのではない。結果としてわかりやすくなったり、そのようにしか書けないとかそのように書くことが合ってる等の理由でわかりやすいものになっているのであればいいのだ。そうではなく、最初から一種の態度として読者を意識して目指すわかりやすさというのがいやらしいのであり、やや大げさに言えばそれは詩の中心にあるべき内実がないままで書かれてしまっている。それは、そうした読者サービスとしてのわかりやすさを目指す書き手の多くが忌み嫌う、「現代詩壇」的な難解さのドグマに落ちこんでがんじがらめになっている詩と同じ過ちを犯しているのだ。両者に共通するのは内実がおろそかになっているという点であり、外面の意匠としてのわかりやすさや難解さの皮を剥いでみれば同じ荒涼が広がっているのだ。
 私は表面的な意匠としてのわかりやすさが詩を救いうるとは思っていない。そんなものはたわごとであると言ってもいいくらいだ。詩の朗読を私もやることがあるが、それはあくまでも趣味としてであり、詩を朗読することが詩の読者の裾野を広げるなどとは信じていない。それは一種の迷妄であり、詩の本質や社会的立場を考慮に入れることのないおめでたい考えであると思っている。詩とは書くことによって常に差異が意識されるものである。一般の人々との差異。社会や時代との差異。これまで書かれてきた多くの詩作品との差異。日常言語との差異。大文字の「詩」との差異。そうしたもろもろの差異を抱えこんだ危険物として詩はあるのであり、決して外部と同調するためにあるのではない。また、多くの差異を抱えているがために、詩はいつも分裂している。だからこそ不安定であるのかもしれないが、少なくともその分裂が詩を詩たらしめてきたのであり、こうした差異や分裂が本質的に存在しているからこそ詩は難解なのだ。それは表面的なわかりやすさや難解さと関わりなくあるものだ。つまり、表面的にわかりやすい詩であっても、それが詩である以上は必然的に難解さを孕んでしまっていると言えるし、詩を書くということは、そうした難解さへと接近することでもあるのだ。
 いっぽう詩の外部にいる一般の人々に対しては、変な幻想は捨てた方が書き手にとっては良いのだろう。詩がここにあってなおも日々書きつづけられているのは事実だが、だからといって人々は簡単に振り向いてはくれない。私は最近よく詩の社会的立場というものを考えるのだが、それを思えば詩に関わりのない普通の人々が詩を(とりわけ「現代詩」を)気にしてくれる可能性は限りなく低いと言わざるをえない。私の考えでは詩が人々に受け入れられないのは、そうした詩の社会的立場とともに、日本人独特のものの考えや時代的背景等もかなり影響していると思う。ひとりの書き手が頑張ってどうにかなるレベルを越えていて、一筋縄では行かないところまで来ているのだ。そうでなければ、これまでさんざん詩と読者の関係が言われ、詩の現場の方でもそれなりの試みをしてきたのだから、この問題はとっくに解決していてもおかしくはないだろう。
 詩とは誰のためにあるのでもない。作者のためでも読者のためでもないし、ましてや「詩壇」のためにあるのでもない。詩は詩としてそこに静かに存在するだけだ。書き手としては、とりあえず書いていき、そのいっぽうでそれぞれの人生を生きていくしかない。また、詩の外部の人々も同じように生きていくだろう。その両者が出会うことがあるとすれば幸福なことに違いないが、幸福とは目指すべきゴールではなく、ひとつの結果として恩寵のようにもたらされるべきものなのだ。



(二〇〇八年一月)


散文(批評随筆小説等) 批評祭参加作品■難解さへの接近 Copyright 岡部淳太郎 2008-01-29 20:39:36
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