食い違う夢 −『私たちの欠落(夏の日の)』藤丘 我流読解−
批評祭に寄せて、ふたつの文章を書く構想でいた。ひとつは、フォーラムの
外で書かれたものについて、もうひとつはここに書かれたものについて、だ。
外のひとつには諏訪哲史の『アサッテの人』を選んだのだが、あまりに重厚
で(この小説は散文詩として読むべきだ)短時間ではとてもモノに出来ないと
分かり、後日改めて挑戦することにした。いまは冒頭に引用されたアルトーの
『精神の秤』を取り寄せている。芥川賞の、詩に無理解な男性の選考委員ふた
りの酷評のためか、この小説は半年経っても不当に低く評価されたままだが、
人がことばを発すること、ことばと関わることのスリリングさと危険を、あん
な風に切りだしてのけた小説は、近ごろの日本にはない。詩人が着目すべき領
域のことを、学者風にでなく、ことばの職人的な手つきで切り出してのけた。
あれこそ詩人からの批評や解題を必要としている作品ではないだろうか。
そういうわけで、フォーラムの中から作品を選ぶ事になったのだが、山下達
郎のように「棚からひとつかみ」という訳にはいかない。山下さんの場合には
何かしら自分にとって見所のあったレコードを棚に納めたから出来るのだが、
フォーラムの場合は本屋や図書館のように、知らないうちに色々な作品やら雑
文が集まってくるのだから。たまたま手にとった本が指圧の本だったら、お前
はそれを文学書として批評するのか大村?(悶)
野中英次のマンガみたいなカラミ方は止めて〜。こういう時には私は個別の
作品の良し悪しより、作者で選んで取り上げる事にしている。
なぜかと言うと、誰でも瞬間風速で良い作品を書ける事はあるが、それが千
三つでは、その詩人が詩を通して何を実現しようとしたいか詩人自身に分かっ
ていない、と考えられるからだ。こういう詩人は大抵、褒めた途端に脱線して
駄目になるか、半年続かない。あるいはその批評を言質にして世間に駄作をま
き散らす。それでは取り上げないほうがマシというものだ。
私は批評とは本来、作品について読者に新しい視点を与えるために書かれる
ものだと考えてはいるが、優れた批評が特定の作者・作品を盛りたてていくと
いう作用は認めるし、否定もしない。だからこそ取り上げる詩人が自分にとっ
て、アーチストとして人間として信頼出来るかどうか、ということが大切にな
ってくる。批評の結果、人生を傾けかねない「詩」の世界に相手を引きずり込
む事になるかもしれないのだから、立場が上であれ下であれ、選ぶ以上は選ぶ
側にも責任があると私は考えている。
…今後のためにいろいろな話の糸口を作っておきたくて、藤丘さんには失礼
だが無関係な前置きを長々と書いた。やっと本題に入る。
* * *
藤丘さんという詩人の存在をはっきり認識したのは、恥かしながら拙作にポ
イントを頂いてからだ。ポイントを返す時、おざなりに最新作に返すのは私は
嫌で、少なくも近作から何作か読んで気に入ったものに返すようにしている。
それでその時作品リストを見て、高得点ぶりに驚いたものだ。「現代詩フォー
ラム」のポイントは、芸人への投げ銭より気安く入れられる評価の指標だが、
(批評の考えと矛盾するが、私はポイントについては気軽に扱う方が良いと思
っている。無闇に重く考えて、読者からのレスポンスが減ってしまうよりは良
いから)、それでも大概の作品が30〜60点とは尋常ではない。
作品ごとの掲示の日付の間隔は広く、ネットにあっては寡作の詩人に見える。
息の長い詩人だ、ということだ。作品も精選していると思われる。そのため上
位チャートから外れた後もポイント蓄積が続いて、深い森に静かにそびえる大
木の如きポイントになるのではなかろうか。秀作は多いが、今回はその中から
私の好きな『私たちの欠落(夏の日の)』を取り上げる。
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=119708
#私たちは互いを必要としながら
#それぞれの場所で夕陽を眺め
#明日の湿度を欲しがり飲み込む振りをする
#
#あなたと私は
#埋もれてしまったいつかの夏に
#栞を置いたままかもしれない
#それでも私たちは真実を口にしない
#私たちの日常には触れ合うことを拒む痛みがある
この冒頭第1連と第2連で、この詩が扱おうとするテーマは明らかにされて
いる。夫婦あるいはそれに近い間柄のふたりの、それぞれが抱えて生きる秘密。
読解にあたっては「あなた」は配偶者ではなく、親や兄弟、あるいは会社を
呼び変えたものかもしれない、と仮定してみるが。「明日の湿度」と「いつか
の夏」いう表現が、その仮定を覆す。「湿度」の隠喩からは生体的・性的な要
求が窺われ、それをお互いに依存しあう関係とは、互いの存在そのものを相手
が左右し得る濃密な関係だと想像できるし、「いつかの夏」からは世間で言わ
れる「一夏の過ち」も連想される。
いやこの「いつかの夏」はそんな陳腐なものではないかも知れない。もっと
内面的なものかも。外からはそう見えても仕方の無いことだったかも知れない
が。…そんな弁明を加えたくなるのは、この2連の整った言葉遣いに、この詩
の主人公の鋭い決意のようなものを、大村が感じ取るからだ。
「互いを必要としながら」「それぞれの場所で」「飲み込むふりをする」親密
さを擬態するそれぞれの人影の、何と孤独なことか。「それでも私たちは真実
を口にしない」「私たちの日常には触れ合うことを拒む痛みがある」
そしてこの作者の表現力の真骨頂は、埋もれた記憶のことを、熱心な詩の読
者の脳裏へ一発でイメージさせる「栞を置いたまま」という部分である。
#急な雨の日の窓硝子に反射する
#輪郭のぼやけた
#あなたかもしれない横顔を見ることがある
#
#遠い夏の陽射しの
#揺れの中に置いてきてしまった
#あなた
#かもしれない面影を
#瞬きの合間に抱きしめることがある
第3、第4連どちらの連も「あなたの」の断定ではない点に注意して欲しい。
「あなたかもしれない」ということは実は「あなたではないかもしれない」と
いう事なのだ。
私はあなたを愛している、と言いながら、実は私のなかのあなた(のような
誰か)の面影を追いかけているだけなのかもしれない。雨の日の曇った窓硝子、
瞬き、外からの信号が遮られた時にだけ、無意識の自分が再生するその面影。
それはあるいは、自分が自ら抹消した不実な行為の、記憶の残滓なのかも知れ
ない。
#私の喉は閉じたままで
#幾つかの小さな空気孔が
#今日一日分の赤血球を分離させて行く
#白い雨は私たちの昼を浸食し
#夏の
#ぬるい海へ流れる
この第6連が、大村には正直よく分からなかったが。もしかするとこの詩の
主人公は透析治療のようなものを受ける必要がある病気で、もう動けない状態
なのかも知れない、と思った。ならば第一連の描写は、夫婦の寝室ではなく夕
暮れの病室、という事になる。
「喉は閉じたまま」が深い沈黙を意味するだけならば病気ではないが。この場
合には「赤血球を分離させて行く」のは主人公自身の身体の細胞という事にな
ろう。
ここに出てくる「白い雨」とは何だろう。「夏の/ぬるい海へ」と「私たち
の昼」を浸食して押し流していくもの。記憶や意識を解かして曖昧にしていく、
日常を流れて行く時間(の浸食作用)のことだろうか。
#月の隠れた夜にあなたと私は
#幾つかのガス灯を数え
#カバンの中の折り畳み傘をひろげて唄を歌う
#
#朝と夏の雨は混ざらない
#私たちの姿は少しも奇妙ではなく
#暗闇では慈愛に満ちている
この第7連と第8連、実は1セットなのだと思う。
やや唐突な感じのする第7連だが、これがないと第8連の「朝」や「姿は少
しも奇妙ではなく」といった語句の存在理由が説明困難になる。
第7連、「月の隠れた夜」に「傘をひろげて」いるのだから、この連のシチ
ュエーションは「雨」だ。そしてこの詩の中に「朝」を描いている連はひとつ
もない。
大村が思うに、第7連は主人公が夜明けから朝にかけて見た「夢」ではなか
ろうか。ということは「朝と夏の雨は混ざらない」とは、大村が我田引水に言
い換えると「私の夢や妄想のなかに、日常の浸食作用は及ばない」と言ってい
るのではないだろうか。
そして「月の隠れた夜」は「暗闇」つまり夢の中だから、あなた(かもしれ
ない人)と私が「傘をひろげて唄を歌う」「姿は少しも奇妙ではなく」、お互
いに「慈愛に満ちている」。(<編集し過ぎだったらゴメン)
第7連で描かれる映像は、まことに詩的だ。けぶるガス灯、鞄から小さな傘
が開かれ歌になる、小から大へ拡大する暗示の面白さ。
そんな奇妙な映像を描きながら、それを「奇妙でなく慈愛に満ちている」と
断言する。これは主人公のなかの不可触の領域が、外部の真実に対して勝利し
たことを意味するのではないか。
#次第に私はとても狡くなり
#何もかもを忘れている素振りで
#浅く眠りながら
#眼の奥で望んでいる夢を一つ見ている
最終第8連は、この内面の勝利を追認して終る。最後の1行が、ここまでの
経過を締めくくる格好で置かれている。
* * *
難解な部分のある詩だったが、重層的で精密な表現であったため、アタマの
悪い私にもどうにかここまで読み解く事が出来たし、そうした読み込みに耐え
る、面白くて優れた詩だった。今回のが見当違いの解題だったら、どうかお許
し頂きたい。
全体に硬質な言葉を選び、下卑た解釈や描写を拒みながら、人間関係の精神
的な、内的な虚構性に迫った詩だと感じた。
恋人や夫婦は、相手の全てを知り尽くして契りを交す訳ではない。
自分の中にいる異性像をユング心理学では確かアニマあるいはアニムスと呼
ぶと思ったが。自分が求める相手の人物像には、自分の意識・無意識の願望か
ら、過去に自分と係わった様々な人や物事との記憶が影響し合い、重なってい
る。相手の何を愛しているのか、現実には本人にだって分かってはいないのだ。
そして相手が何事か隠している、ズレていることを承知で始める恋愛もある
し、ズレたまま婚姻に至る事も多々ある。「骨まで愛して」なんて古い歌があ
ったが、実際には、互いの多少のズレや秘密は、飲み込む積りで恋愛は始める
ものだと私は思う。
実際には、人はずっと孤独なままだ。相手を欺いていると思えばなおさら。
この詩の最終連の「浅く眠りながら」に、主人公の、その愛しい何者かの記憶
を「墓場まで持っていく」決意の凄みを感じた。
…とこんな感想やら批評の文章を、休日出勤を前にまだ眠っている妻の隣り
の部屋で、私はひとりで書き始めたのだ。
追記:
藤丘さんの作品に関しては、「海と人と」について、詩誌 “kader0d”で昨
年話題となった広田修さんが、脱構築批評の手法で取り組んだ批評があります。
http://www15.plala.or.jp/sgkkn/poetry/criticism/criticism.htm
2008/1/27
大村 浩一