批評祭参加作品■気分と物語
岡部淳太郎

 詩に魅了され詩を書きつづけていこうと決意した者の多くが一度は抱く疑問として、「詩は何故読まれないのか?」というものがある。これは特に日本の詩人たちの間ではずっと昔から語られてきたことでありやや手垢がついたもののように見えるが、自分なりにこの疑問について考えてみたい。
 詩が読まれないということは、人々の間で詩に対するネガティヴなイメージが定着してしまっているからだと思われる。そのようなネガティヴなイメージによって詩が社会的に規定されてしまっている。だから人々は詩を語らないし、詩というものを最初から考慮のうちに入れずに素通りしてしまっているのだ。それでは何故、そのようなネガティヴなイメージで詩が捉えられるようになってしまったのだろうか。この問題を突きつめて考えるには、詩を語るだけではどうも足りない。特に日本において詩の社会的立場が低いように思われるのだから、日本の歴史や日本人の気質といった大きなものを語ってみなければならないような気がする。それとともに、日本の詩の歴史(それは近代詩以降に留まらず、和歌や俳句なども含まれる)を合わせて検討する必要があるだろう。西洋に比べて日本の詩が特異な道を歩んできたことは周知の事実だが、その歴史が人々の間で認知され日本人全体の気質に照らし合わされた時に、一般の日本人の間での詩のイメージというものが形作られていく。その過程をひもといてみたい。
 日本では古来より独自の短詩定型が発達していた。和歌や俳句の究極まで研ぎ澄まされた形式は、中国の漢詩や西洋のソネットとはまた違ったミニマルな美しさを湛えている。一部に長歌や連歌といった形式もあるものの、一般の日本人にとって詩は概して短いものであった。わずか十七文字や三十一文字の中に抒情を溶けこませる。そのストップモーションのような瞬間のキレこそが日本人にとっての詩というものをイメージさせてきたのだと言える。人々がそこから受け取るものはやはり瞬間の抒情である。たとえば相聞歌のようなものから物語の雰囲気を感じ取ることはあるだろうが、物語そのものを受け取るようなことはない。そこにあるのはあくまでも抒情と詠嘆であると人々は見做してきたのだ。短歌や俳句の本質がどうこう言う以前に、人々にとってそのように受け取られてきたということはとりわけ重要だろうと思われる。何よりも字数の制限があるということがそうした印象を強めさせているだろう。また字数の制限というものは(ごく最近でも、若い人たちが五七五と指折り文字を数えて短歌や俳句を作ってみることがあるように)、決まったルールの上に則ったある種の遊びのようなイメージを人々の間に流布させてきたように思う(余談だが、現代詩よりも短歌や俳句を手がけようとする人の方が多いのも、一部はここに端を発しているような気がする)。こうした古来よりの詩的なものに対するイメージが集積することによって、その和洋折衷版とも言える現代詩へのイメージもまた形作られていく。さらに言えば、現代では短歌や俳句は「良い趣味」として遇されるいっぽう、現代詩は「きもい」ものだと認識されているようなところがあり、それは現代詩が和洋折衷であるぶん、それだけ西洋的な「揺れ動く自我」的な要素が強く、そのためかえって一般の人々から見れば奇異なものに映るということがあるのだろうと思う。
 それに加えて、日本人全体の気質というものが挙げられる。日本人はとかく真面目で協調を重んじる民族であるとされているが、そうした真面目さや和を尊ぶ気質が、詩的なものから精神的な距離を置いてしまうということがある。先述した抒情や詠嘆といったものは社会から離れてひとり別の道を行っているというイメージで捉えられやすく、和を尊ぶ真面目な日本人からすると単に怠けているだけのように見られてしまうのだ。風流という言葉があるが、それはひとり俗世間から離れて気取っている鼻持ちならない態度だというふうに受け取られやすいのだ。
 ここまで見てくると、日本人が詩に対してネガティヴなイメージを持ってしまう理由が何となくわかってくるだろう。だが、問題はそれだけではない。先ほど指摘した物語の欠如というものが、人を詩から遠ざけさせる大きな理由のひとつとしてあるように思える。現代詩には物語的要素を持つ作品もいくつか見られるものの、小説やドラマなど多くの物語が氾濫する現代にあってはそれらが振り返られることは少ない(元々読まれていないのだから振り返るも何もないのだが)。何より詩は抒情であり詠嘆であると規定してしまった人々にとっては、詩を読むより前にそれ以外の多くの物語を簡単に享受してしまえるのだから詩ははなから考慮の外に置かれてしまっているのだ。思うに現代は物語が氾濫した時代であるが、逆にと言うべきかそれゆえにと言うべきか、物語の氾濫の度合いに比例して人々は物語を求めつづけてしまうようなところがある。物語というからにはそこには流れがあり骨格がある。ひとつひとつの場面を際立たせるための筋肉や贅肉もあるだろう。言わば読んで納得できるだけの要素が揃っているのだ。それに比して詩の方はどうかというと、わざと関節を脱臼させたり筋肉を痙攣させたりもするし、思わせぶりに置かれた言葉は不可解に映りもするだろう。そのため、詩は門外漢には何のことやらわけがわからないものに成り果ててしまうのだ。それに人々にとって詩はは抒情と詠嘆であるというふうに規定されてしまっているのだから、物語を求めようとする者にとっては興味の対象外になってしまう。古来より集積してきた詩的なものに対する人々のイメージは動かしようのないものとして定着してしまっていて、いくら詩とはそんなものではないと言ってみたところで、人々は定着したイメージのみで語りそこから先に進もうとはしないから、それを覆すのは至難の業ということになってくるのだ。
 それにしてもどうして人々はこうも物語を求めてしまうのかと不思議に思うのだが、それは恐らく人々の生というものが昔もいまも変らずに味気ないものだからなのだろう。現代にあっては下手に物語が溢れ過ぎているぶん、人々はそれに触発されるようにしてなおさら物語を求めてしまうようなところがあると思われる。物語を渇望し物語に触れることで、人々はますます詩から離れていく。世に氾濫する数多の物語に比して、詩は人々の頭の中で徹頭徹尾「気分的なもの」として認識され、求められもしなければ顧みられることもない。どうやら現代日本において詩は無用の長物であるらしい。だが、世界は思わぬところで詩的な姿を垣間見せることがある。世界そのものは物語的であると同時にきわめて詩的でもあるのだ。人々にとって不意打ちのように訪れる世界の詩的側面を思えば、詩は死んでいるように見えて、その実深く潜行して地下水のように人々の心の中に眠っているのだということが出来るかもしれない。



(二〇〇八年一月)


散文(批評随筆小説等) 批評祭参加作品■気分と物語 Copyright 岡部淳太郎 2008-01-25 22:22:19
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