カモノハシのパンセ9
佐々宝砂

弱い者は、弱い者を痛めつけるものだ。

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おそらく、鈍感に見える人間も、それほど鈍感ではない。むしろ意外と鋭敏だったりする。実際に毎日会って話したって、そのひとが鈍感か敏感かはわからない。ましてネットだけじゃもっとわからない。またたとえ敏感だからって、その鋭敏さが何かを正しく嗅ぎつけているとは限らない。だから私がなにやら曖昧にものを書くとき、「コレは私のことかもしれない」と思う人間がいるのは当然だ。私が曖昧に批判するのは罪だろうか、罪かもしれない。ここを読んでるのが誰か私にはわからないが、まあ、たぶん私の批判対象は、あなたではない。

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人間、かっこいいだけでは生きてゆけんのである。

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このさい批判も酷評も悪口雑言罵詈誹謗もドラゴンもラスボスもなんでもかんでもやってきやがれ。

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バカでいいから生き延びてくれ。死ぬな。消えるな。どこかで息をしていてくれ。

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リアルな私はよく笑う。自分で言うのもなんだがものすごくよく笑う。からっとしてると思う。明るい性格かどうかは謎だが、現時点では愛されなくてもわりと平気だ。子どものころきちんと親に愛されたからだと思う。からっとしてるのはきっと静岡の風土のせいだ。おひさまさんさんでからっかぜばかり吹くからな。いずれにせよ、努力して明るいわけじゃないので、ときどき申し訳ない気分になる。

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なぜ私たちは、否、なぜ私はだんだん不自由になるのか。暴れるからだ。ほどほどにしとけ。自戒をこめて。規制されないぎりぎりの場所で遊べ。どこまでやっていいか、ときとところを心得ろ。これまた自戒、自戒と書いておかないと誰かが「私のこと書いてるー」と妄想に陥るかもしれない(前にそんなことがあった)。とにかくこれは自戒だ。

合法ドラッグも、あまりにはびこって害が大きくなると非合法になる。

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何かを熱狂的に愛する人がいるとして、その人の言うことは、話半分に聴いた方がいい。あんまり愛してるとモノゴトをゆがめてみてしまう。もちろんあんまり憎んでいてもひずんでみてしまう。ほどほどに好きで、ほどほどに詳しいヒトの言い分が一番信用できるような気がする。もちろん、これは私個人の意見であって、信用するに足らないことだ。

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ありえないことはほんとにありえないが、ありうべからざることはある。もしかすると、よくあることだったりする。

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最近殺人や事故のニュースを見ると、亡くなった人がいかに家族に愛され社会や地球のことを考え立派に生きていたか、とゆーことが大きく報道されるよーな気がする。そらね、その人は立派だったかもしれんよ。立派な人を事故で死なせちゃったり殺しちゃったりしてはいけないよ。だけど、みんなから憎まれて地球にも社会にも優しくない生活を送ってたろくでなしを殺すのもいけないんだよ。

私が殺されたとき、ニュースはどのように報道するのだろう。私にはプラス面もマイナス面もある。ネットにこういうことを書き散らしているのだから、このような文章が報道に引用されることもありうる。いいところだけを抜き出せば私はとてつもなくすばらしい人に見えるだろう。悪いところだけ抜き出せば、殺されて当然の悪人に見えるだろう。私が理不尽な事故で死んだら、報道は、私のよい面だけを抜き出すのではないか。私が殺したら、報道は、私の悪い面だけを抜き出すのではないか。私が殺されたら、報道は、私のろくでもない日常とネットとの乖離を焦点にあてるかもしれない。

報道をそのまま信じるのはよくない、ってみんな知ってるとは思うけど、信じなくても心は動く。感動して涙させられるのはいいことか? いいことかもしれないけど(泣いてる本人にはわりと気持ちいいことだから精神衛生上は悪くないが)、泣いたあとでかまわんから、一歩引いて考えてほしい。世には単なる悪人もいないし、単なる善人もいない。世の中はそんな単純な構造でできてはいない。

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私はレトロが好きじゃない。昭和レトロも大正レトロも。嫌いというほどではない。レトロが好きなひとはそれでよろしい。ただ私はレトロを好む人間でありたくない、懐古的ではありたくない。私は私の知らない風景をみたいのであって、その風景がたまたま過去にあることもある、でもそれはレトロじゃない。あるいは単なる知識として戦前の教科書について知ってることもある、でもそれもやっぱりレトロじゃない。

私は昭和の最後の二十年に育った。私の考えのおおもとは昭和に形成された。だからこそ私は昭和を脱却したいのだろう。昭和の亡霊を抹殺したいのだろう。

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私はブンガクに興味がないらしい。というかブンガクより科学や数学の方がおもしろいとおもう。でも悲しいかな私は科学者ではなく、文章書くしか能がないので文章を書く。ちなみにテツガクもどうでもいいとおもっている。社会学もどうでもいいような気もするが実際面で役立つこともないではないので、存在価値は認める。テツガクとブンガクの存在意義、存在価値ってそれなりにあるんだろうけど、私には理解できない。ほんとうにさっぱりわからない。

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私はかくありたいと願うほどには美しくない。同様に、かくありたいと願うほどには誠実じゃないし本気でもないし根性もない。かくありたいと思うほどには「子ども目線」ではない。かくありたいと願うほどには「自分の言葉」を持たない。もしかしたら私は全然自分の言葉を持たない。

激安のモノカキ仕事をしていて思うが、世間は「個性あふれる言葉」など必要としていない。おおくの場合、世間が必要とするのは、一般の常識的な知識を平易に伝える言葉だ。そうした平易な言葉で伝えるべき知識を私なりの言葉で噛み砕こうにも、なかなか噛み砕けない。

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私は雰囲気を読まない。こどものときから読まない。言わなくてもわかる、という言を信じない。言わねばわからんよ。それも直接に言わねばわからんよ。経験を積めば確かにある程度雰囲気だの場だの話だのが読めるようにはなる。確実な真理ではなく、推測の結果として読めるようにはなる。だが、誰に対しても「空気を読め」と命令するのは残酷で身勝手だ。誰に対しても(今日はじめて会った他人にたいしてすら、というよりもそういう人に対してこそ)ひとは、モノゴトをきちんと説明すべきなのだ。それをしないのは横着だ。

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私の住む世界は、私と、「私でないもの」からできている。「私でないもの」は、どんなに私に近いように思えても、「私ではない」。私はあなたを理解しない。あなたは私を理解しない。それで問題があるかというと、別にない。

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みんな、強くなりやがれ!


散文(批評随筆小説等) カモノハシのパンセ9 Copyright 佐々宝砂 2008-01-06 22:52:02
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