助からなかったもの
鴫澤初音

  零れていくもの。


  今日も白衣を着ていた朝、ロッカルームから出てくると、
 弓ちゃんが反対側の扉を開けて、私を見て笑った。
 「初音ちゃん、もう来てたの? 久しぶり!」
  羽みたいだった。上唇に押し当てた指から花の匂いがし
 た。きっと三月さんの香水の匂いだと思った。
 「弓ちゃん、昨日さ、高さん泣いちゃってね、」
 「え、どうしたの?」
 「ここにいるのがつらいんだって」
 「ええー? 何で?」
  眉をしかめて、弓ちゃんが苦そうに言った。思い出して
 るだろう、高さんの顔は、そういえば、いつも悲しそうな
 笑顔ばかりだった。つらい、罪悪みたいに絞りだすように、
 申し訳なさそうに言った高さんのびっしり生えた睫毛から
 涙が曇って、落ちていった。
 「さあ、やっぱり仕事きついんじゃないの」
 「そうかなぁ…」
  弓ちゃんにはわからないだろうな、と思った。弓ちゃん
 のように素直で生きていくことを何の曇りもなく信じてい
 る人には。弓ちゃんは全ての女の子がなろうとして、なれ
 ない女の子だった。自分の美しさや素直さに無頓着で、そ
 して誰であれ人を受け入れることを自然にできる。そして、
 自分が人にどう映っているのかまるで気にしない子だった。
 私は弓ちゃんが好きだったし、そんな生き方もあるんだと
 ようやく知ったけど、彼女の生き方を魅力的だとは思わな
 かった。人が本当に幸福だと感じる瞬間が彼女と私とでは
 違うのだろう。私は他人と比較することでしか幸福ではい
 られない自分を快く思ったことはなかったけれど、それは
 実際、事実だったし、今のところこのラインから脱却する
 すべを知らなかった。立ち止ったまま。

  壊れていくもの。


未詩・独白 助からなかったもの Copyright 鴫澤初音 2007-12-30 03:06:29
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