「経験」とは「不可逆な変化」である。
佐々宝砂

最初に言っておかねばならない。私は経験を重要視するわけではないし、軽んじるわけでもない。私は経験について中途半端な考えを持っている。経験は重要な場合もあるし、そうじゃない場合もある。経験しなけりゃわからないこともあるし、経験したってわからないこともある。あるいは実体験したわけではないのに、経験したと言い切れるような変化を体感することもある。当たり前のことで、実につまらない。私はそんなことを話題にしたいのではない。

『しあわせの理由』http://www.amazon.co.jp/dp/415011451X/gendaishiforu-22/(グレッグ・イーガン著)という本に「適切な愛」と題されたSF短編が掲載されている。「適切な愛」とは、ある意味皮肉なタイトルだ。小説の冒頭、主人公の女性は交通事故で夫を失いかける。夫は脳だけになってしまうのだが、保険に加入していたのでクローンを造ることができ、命は助かるという。しかしクローンができあがるまでのあいだ、夫の脳をまともに維持するためには高額な装置が必要で、その維持費を払えない妻は自分の子宮を使って夫の脳を生かすことに同意する。必要な時間が過ぎて夫はクローンの身体を得て復活し、妻に心からの礼を言う。それは本当に心からの感謝だと私は思う。そして夫の脳を子宮で生かした妻の決意は、確かに「適切な愛」に基づくものだと思う。だが、私は、夫の感謝について語りたいのではないし、愛について語りたいのでもない。

小説の最後で、夫の脳を子宮で生かした妻は、自分が元の自分ではない、と感じる。私が話したいと思うのは「元の自分ではない」というこの認識についてなのだ。夫の脳を自分の子宮で生かすという経験がどんなものか、私には想像ができない。所詮SFの中のできごとだと一笑に付す人もあるだろう。現時点の人類の誰一人経験していない経験でもある。しかし、自分の子宮を夫の住まいに提供するような経験はおろか妊娠出産経験を持たない私にも、「適切な愛」の主人公の女性が「元の自分ではない」ことはわかる・・・というか納得できる。

経験とは、もう元の自分に戻れないことだと私は考える。人間の心身に起こる不可逆な変化のことだと考える。たとえば本によってものを知るということもまた経験であり、多くは不可逆な変化である。一度知ったものを自分の意志によって忘れることは難しい。ものを知ってしまうと、ものを知らなかった自分に戻れない。年を取るということもひとつの経験だ。元に戻ることはできない。つまり、多くの経験を積むということは、何度も変化することと同義なのではないか。この場合の変化はほとんどが内的なものである。複数の人が現実で同様の経験を積んだように見えても、内的な変化はたいていの場合大きく異なるだろう。いやもっと簡単に言おうか? 同じ授業を受けても人によって理解度が異なる。まあ、これは当たり前のことと言えば当たり前のことだ。

また当たり前の話に戻ってしまったな。

私は経験を重視しない。軽視しない。経験の種類の区別もあまりしない。いい経験も悪い経験も経験であることにかわりはない。現実の経験も、本やゲーム、映画などによるバーチャルな経験も、経験であることにかわりはない。よかれあしかれ、またバーチャルな経験であれ現実の経験であれ、はたまた想像による全くありえないような経験であれ、私たちは、一度経験してしまった以上、元の自分に戻ることができないのである。


散文(批評随筆小説等) 「経験」とは「不可逆な変化」である。 Copyright 佐々宝砂 2007-11-12 21:36:33
notebook Home