季節の散歩術
岡部淳太郎

 散歩が好きだ。ゆっくりと、目的地を決めずに歩く。春や秋の、それぞれの季節の風物を感じながら、ひとり歩を進める。そんな感覚が好きだ。そして、歌をうたう。そうすると、人からおかしな奴だと思われる。人は陽気にうたいながら歩いている私を遠巻きに見て、ひそひそと囁き合い笑い合っては、私から遠ざかっていく。そんな彼等の態度に臆することなく、私はますます自分だけの散歩にうちこむ。全身全霊をかけてのんびりと歩く。それが散歩の極意である。散歩は他人を必要としない。まったくのひとりきりの世界に沈潜して、散歩によってもたらされる内向きの世界にこもっては、目に映る道や空や鳥や虫や花などに静かに微笑む。目的のない彷徨。それが散歩であり、文字通り「歩」を「散」らして無言の足跡を世界につけていく。
 だが、なぜ散歩なのか? こんなごみごみとした複雑に入り組んだ時代にいまさら吟遊詩人でもあるまいという意見もあるだろう。もっともなことだ。そうした疑問には、「逆にこんな時代だからこそシンプルに散歩なのだ」と答えておこう。
 さて、ひと口に散歩と言ってもそれはいくつかの種類に大別することが出来る。その分け方も様々に考えられるだろうが、ここでは季節による分け方で考えてみたいと思う。もっとも、本稿はルソーの『孤独な散歩者の夢想』のような文学的価値のあるものではありえないので、大仰に構えることなく気楽に書き進めていきたいと思う。


 春

 春の散歩はわりと気楽なところがある。散歩というものは大抵気楽なものだが、夏や冬のような季節の厳しさがないぶん、春の散歩はより気楽になる傾向にある。
 この季節の散歩は、気楽な上に気分が高揚するものでもある。それは春という季節がもたらす効果である。言うまでもなく、春は生命の息吹が萌え出してそれが目に見え耳に聞こえる形で顕在化する季節であるからだ。こうした季節の特徴を多少比喩的に言ってみれば、すべての風物に色がつき始める時期であると言えるだろう。その色が、歩行とともに身体中にまとわりつく。靴の裏にも色はまとわり、それらの靴裏に貼りついた様々な色が歩行の動作で道を踏みしめるたびに道にも印される。道には春の効果によってもともと色が印されていたのだが、歩くことでさらに確かに色は印され、道の下の地中にまで染みこんでいく。春は春であり、放っておいても風物は色づき始めるのだが、歩行という能動的な動作によってその色はより確かなものとなるのだ。
 そこまで行けば、もうすでに季節の思う壺である。散歩者は単に春の陽気に誘われて何となく歩いてみたかっただけかもしれないが、歩くことで春にとらわれ、春の住人そのものとなる。散歩者の身体の中にまで春の色が入りこんで、内側から春の色彩に染め上げられる。そうすると、もううたい出すしかない。春の陽気の中で、花の香りや空の眩しさに目を細めて、風の心地よさに性的愉悦に近いものさえ感じて、歩きながら陽気にうたい出す。春と一緒になって、自らが春そのものとなってうたう。世界と一体化しているという全能感。もう目的地など必要ない。ただうたえ。あなたの歌をうたえば、それはすなわち、春の歌である。


 夏

 ここに来て、季節は苛烈となる。この季節の散歩は、大げさに言えば苦行のようなものであると言っても差し支えあるまい。何しろ太陽がほとんど真上から自らの栄華を誇って燦々と照りつけているのだ。その暑熱の中、虫や花や風はそれぞれに季節と歩調を合わせて高笑い出来るかもしれないが、人間はそういうわけにはいかない。人間とは文字通り人と人の間にある存在であり、その「間」という立ち位置には時に気温では計れない暑苦しさが生じることがある。そんな暑苦しさから逃れたくてひとりで外に出てみても、また別の種類の暑苦しさが待っている。とても気楽な散歩というわけにはいかない。
 また、夏の暑さは色で言えば赤であり、それは血の色を連想させる。殺戮と闘争の色。そんな色の前では、勝利こそが正義であり真実であるということにもなりかねない。散歩という気楽な作業はもともとそういった勝負事とは無縁であり、だいいち散歩にはゴールというものがない。勝負は勝つか負けるかという単純なゴールがあらかじめ設定されているから、散歩とは明らかに異質である。よって、やや強引に言えば夏は散歩にはふさわしくない季節ということになる。
 だが、逆に言えば、こんな季節であるからこそよく散歩を成しうるとも言える。すべてにおいて白黒はっきりと決着をつけることを要求する夏の蒸し暑さの前では、散歩など物の数にも入らずに消え去ってしまうかもしれないが、たかが散歩などと甘く見てはいけない。散歩の達人ともなれば、持てる限りのあらゆる技術を総動員して、夏の合理的な暑さから逃れることが出来るのだ。まず暑さの心身両面への侵略を回避する必要がある。そのためには、この季節をただの風景として見なすことだ。当たり前のことではないかと言われてしまいそうだが、そうではない。人はある状況に身を置いている時(この場合はそれぞれの季節の中にいる時)、大抵の場合は自らを状況の中に溶けこませているものだ。自らを状況の一部としていて状況の中の駒のようなものとして動いている。だから客観的に風景を眺めるなどということは望めない。その風景を客観視するということを、あえて成し遂げてみるのだ。そして、自らを単にひとつの生命体であると認識し、その孤独の中で自らを強く(夏の太陽にも負けないほどに強く)保つのだ。そうすると、夏はあなたの皮膚を照らすだけであなたの心まで侵略することはない。強靭な孤独を得ることで、夏に打ち克つのだ。そして暑さにあおられて歩調を速めてしまわないように、自らの速度でゆっくりと歩く。あなたは夏の風景を眺める、夏という季節を鑑賞する者となる。そうすることによって、初めて夏はあなたにいままで隠していた優しさを示す。歩くことに疲れたら、木陰に入って休むが良い。あなたはひとりの人であり、夏はあなたの生を彩る風景である。


 秋

 秋はもっとも気楽な季節である。その気楽さは夏でも冬でもない、中途半端な季節であるということに起因している。あまりにも暑すぎたりあまりにも寒すぎたりといった厳しい気候の中では、このような気楽さは生まれようがない。中途半端さというものは人を気楽にさせる。その中で思う存分気ままに散歩を楽しむことが可能なのだが、秋とはただ気楽なだけの季節ではない。秋は収穫の季節であり、滅亡への静かな予感に打ちふるえる季節でもある。収穫と滅亡、いっけん相反するような二つは密接に関わりあっている。満月が満ちた次の瞬間から欠け始めるように、完成とは滅びへの序曲でもあるのだ。
 こうして見ると、人が秋という季節に感傷を覚えるのも当然のことであり、そんな季節に行なう散歩もまた感傷的にならざるをえない。一歩ずつ道を踏みしめていると、これまで過ごしてきた季節では聴くことの出来なかった音が足下から絶えず聴こえてくるようになる。それは枯葉を踏みしめる音。枯れた末に道の上に落ちてしまった葉の、水分を失くして乾ききった身体が鳴っている。葉の屍骸を踏みしめている。一度死んで枝から離れて力なく横たわったものを、踏みしめることでさらに殺していく。秋の散歩とは、そうした滅びの音に和していく行為でもある。あなたは歩く。歩きながら、すでに死んでいるものをさらに容赦なく殺していく。風はふるふるとふるえ、虫たちは枯葉の屍骸の堆積の中に隠れて、じっと息を潜めている。まるで自らの犯した罪が露見するのを恐れているかのように、それらの罪への懺悔をするかのように、彼等はじっとうずくまっておとなしくしている。やがてあなたも埋もれていく。散歩をしながら、自らの「歩」をそこらじゅうに「散」らばらせながら、あなた自身も滅亡の堆積の中に静かに隠れていく。秋の散歩が気楽なのは、過ごしやすい気候などのせいだけではなく、もしかしたら死という絶対的な静寂が訪れ始めていることへの安心感にも理由があるのかもしれない。
 しかし、ただ打ちふるえて滅びへの道を歩むだけではない。あなたの「散」っていった「歩」は、あなたの感情を乗せて、葉の屍骸の上に静かに降り積もる。まるで眠る者の上に毛布をかけるかのように、あなたの「歩」はあなたが歩いた先々で滅亡の上に安寧を上塗りしていく。それはもしかしたらもうひとつの果実。誰かの手によって収穫されるべき小さな完成であるのかもしれない。


 冬

 この厳しい季節を潜りぬけるのは容易なことではない。それをただ沈黙の季節であると言い切ってしまうのは、あまりにも安易に過ぎるかもしれない。たとえば雪国の寒村で、海辺に沿ってまっすぐに伸びる道をひとりの老婆が重い荷を背負って歩いていく。そんな光景を想像してしまうのだが、すべてのものが色を失って白と黒の二階調に還元された風景の中で歩くことは、たとえそれが気楽な散歩であると思ってみても困難でつらいことであるだろう。
 冬の特徴は先ほど挙げた沈黙や単色ということであり、そこからすぐさま死というものを連想してしまうかもしれないが、それは完全な死ではなく、次に生まれ変るための一時的な仮死状態であるということは言うまでもない。そうした一時停止の季節にさえも人が生きていることを示す。そのために歩くことは、決して無駄なことではないだろう。歩いて、いつもと同じように散歩して、朝の霜や夜の雪に足跡をつけていく。そうすることが、もしかしたら次の生への道しるべになるかもしれない。この地上のあらゆる生が一時的な仮死状態から脱してふたたび萌え出る時に、寒い季節につけられた足跡が手がかりになるかもしれない。そう考えること、自らの生や時間だけではなく、他のあらゆる生とその時間について思いをめぐらせて歩くこと、そうすれば、この季節の厳しい寒さもさほど苦にはならないかもしれない。沈黙は饒舌への前奏であり、一時的に死のように思える状態に身を落としていることには意味があるのだ。だからこそ、歩くことが出来る。歩いて、気ままに散歩して、「散」らした「歩」に意味を付与していくことが出来る。
 あなたは歩く。寒さの中で歩いて、その気楽さの中に次の生への希望をこめることが出来る。風雪の中をゆっくりと歩く老婆は、次の季節には跳ね回る幼い子供となる。それは次のあなたの生の姿そのものでもあるのだ。


 *

 以上、四つの季節ごとに記してきた。散歩というものは徹頭徹尾気楽なものであり、気楽でなければならないというのが唯一のルールであるようなものだが、その気楽さも時に挫けてしまいそうになることがある。ここに記したように季節の特性によってそうなってしまうこともあれば、心中に懊悩を抱えている場合などにもそうなる可能性がある。だが、散歩というものが持つ本来の特性、気楽に目的地を決めずに彷徨するという特性を思い出せば、いつどんな時であっても散歩を楽しむことが出来るだろう。ただのんびりと歩いて、靴先の向かうままに歩を進めれば、目の前の風景が開けてくるだろう。時には後退して、また立ち止まって、目に映る風物を愛でるのも良い。散歩とは目的のない歩行であるがゆえに美しく、それは詩や歌に似たところがある。そしてそれは、目的を持たないがゆえに世界と自らに対する無償の行為でもありうるのだ。
 人よ、散歩せよ。歩を散らして、そのひとつひとつの足跡にあなたの無償の生を染みこませよ。そうすれば世界はいままで隠していた真実を、ほんの少しだけあなたに打ち明けるだろう。



(二〇〇七年九〜十月)


散文(批評随筆小説等) 季節の散歩術 Copyright 岡部淳太郎 2007-10-07 23:43:46
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