土手のギシギシと格闘する前に
佐々宝砂

今から土手の草刈りに行かねばならない。各世帯担当の区域があって、そこはそれなりに綺麗にしておかないと近所の目が怖いのだった。しかし、ものすごく、行きたくない(笑)。だって真剣な話、あれは恐ろしくハードな作業なのだ。

クズはほとんどジャングルだし、ドクダミもジャングルだし、イバラは痛いし、ママコノシリヌグイ(そういう名前の植物)も痛いし、ヘクソカズラにゃ臭いホオズキカメムシがびっちり張り付いてるし、蚊はいるし、害はないけど30cmくらいのでかいキノコ(カラカサタケ)が生えているときがあって、もう慣れてきているはずなのに出くわすといつもびっくりする。やっかいなのはギシギシだ。こいつときたら人の背丈ほどもあって鎌では切れない。ハサミでも切れない。引っこ抜けない。まずは草刈り機でごおーとやる。しかしそれだけではギシギシは元気漫々でまた生えてくる。そこで、草刈り機で刈ったあとを鍬で掘っくりかえす。黄色い根が出てこなくなるまで。ギシギシより難物なのがクスノキだ。ブナのたぐいも生える。毎年たくさん生えてくる。土手にでかい広葉樹が生えている構図は、私にはいいもののように思われる、でも、ご近所のみなさんはそうは思わず桜を植えた。そして私は面倒を避けたい。なので私はクスノキを切る。ブナを切る。できれば鍬で切り株を掘り返してしまいたいのだが、体力がないのでやってない。でもそのうちやらざるを得ないと思う。

ところで、こうした作業は詩的だろうか?

私は工場で働く。えんえんと、単調な作業をラインでこなす。こなしながら詩を考えたこともある。ときおり私は販促マネキンとして働く。ソーセージや餃子を焼いて客に「いかがですか?」と呼びかける。客がいないと暇なので、そういうときには詩を考えてみたりもする。そんな事実は「詩的」がとうかなんてこととは関係ないんだろうなと思う。まあひらたい話、詩的でも詩的でなくてもどうでもいい。私が詩人であってもなくてもどうでもいい。ただ私は私の詩集を売りたいので、わりと積極的に「私は詩人だ」と公言する。だってせっかくつくったんだから、恥ずかしくたって売りたいじゃないか(笑)。

詩集を売るという作業は、美談だろうか、醜聞だろうか?

私は、その植物がなんだかわからないと、雑草を刈りこむのを中断してしまう癖がある。おまえはナニモノだ。なんと呼ばれているのだ。せめて名前を知って殺したい。私は標本をもちかえる。私の家には図鑑が何冊もある。調べる。葉は互生か対生か、キノコの裏側は網か襞か? 「ママコノシリヌグイ」というへんてこな名も、「カラカサタケ」というへんなキノコも、そうした、私にしか意味がないかもしれない同定作業によって名前を知った。そんな呼び名は人間がつくったものに過ぎないのだけれど、でも。私は私を納得させるために植物の名前を調べる。名前は名前だ。言葉は、言葉だ。それは人間のものだ。ママコノシリヌグイは、自分のことをママコノシリヌグイだなんて思ってはいないだろう。

私は、私の立場からしか、ものをみることができない。

ときどきうまく言えなくていらだつ。作者の思いすら絶対ではない、すべては相対的なのだと言おうとして、じゃあ相対的ってなんだよ?と問いかけている自分がいる。ふられてしまって悲しいという詩があったとして、ふった相手だって悲しいのかもしれず、ふたりが別れたという事実を知って内心喜びつつ喜んでしまうことに罪悪感を覚える友人というのがいるかもしれず。要するにとにかくとりあえず何はともあれ、世の中はややこしいんだ、原則も絶対もありゃあしないのだ。私はよく、文学作品を、作者の思惑から大きくはずれて鑑賞する。たとえば、武者小路実篤は大バカコメディとして鑑賞する。バカにして読むのではなく、大よろこびで読む。武者小路実篤が生きてたら怒るかもしれん。案外怒らないかもしれん。そのへんはわからん。

さて、そろそろギシギシと格闘してこよう。


散文(批評随筆小説等) 土手のギシギシと格闘する前に Copyright 佐々宝砂 2004-06-03 10:06:41
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