「徹底的印象批評」のすすめ
渦巻二三五

『まず、ないものねだりをしないこと』http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=781&from=listdoc.php%3Fcat%3D5%26from%3Dmenu_c.phpで原口さんは
修辞法や技術論を基準にすえた批評行為には致命的な欠陥がある。それは作品の作品内意味のみをすくいとるといったことでは当然有効ではあるけれども、名付けようのないもの、たとえば作者がその作品を書かなければならなかった理由にまでは決してたどりつけないし、そもそも予めそんなことを視界のうちに置いていない。


 とおっしゃる。
どのようにしたところで、そもそも読者は「作者がその作品を書かなければならなかった理由」にたどりつくことはできないだろうと思います。たどりつこうと努力することはできたとしても。
 けれども、それはほんとうに必要なこと、求められていることなのでしょうか。

 一方いとうさんは『技術論とミロのヴィーナス』http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=843&from=listdoc.php%3Fcat%3D5%26from%3Dmenu_c.phpで
私自身が技術等への言及に向かっていったのには理由がある。いわゆる印象批評から脱却したかったのだ。印象批評は、客観的な根拠からではなく、自らの主観を根拠として作品を論ずる批評形態である(と思っている)。そこには当然ながら「私」が入り込むのであるが、批評においてこの(評者の)「私」を前提とすることに私は疑問を感じるのだ。

 と言われています。
 これを読んで、私は思いました。逆に、「自らの主観を根拠として作品を論ずる」印象批評を、もっと徹底的にやってみたらどんなもんだろうか、と。
 一編の詩を読んで感銘を受けたなら、その根拠を作中に探り、それによってなぜ「私」という個人が感銘を受けたのかをつまびらかにする。
 おどろおどろしく不安をかき立てるような詩、あるいはおだやかに安堵感を与えるような詩、といった「印象」を持ったならば、それがいったい何に由来するものなのか、作品と自己の内面とを照らし合わせてみる。
 どうあっても真実「作者がその作品を書かなければならなかった理由」にたどりつくことはできないにしても、自分がその作品にある印象を持った理由は述べることができるはずだと私は思うのです。

 いったい詩作品に対して求められているのは批評なのだろうか? と私はこのごろそう思うようになりました。
 作者が求めているのは、確かに誰かが読んでくれた、読み取ってくれた、という証。それで充分、ということはないでしょうか。批評がもらえれば、それは確かに作品を読んだ人がいるという証になります。ほんとうは(批評してくださいとさえ言う人であっても)作者が(私淑する人にではなく)大勢の読者に作品を見せて求めているのは批評ではないのではないですか? どうでしょう?
 また、他の人の作品を読む読者としての私は、それを読んだ他の人がどのように読み、何を感じたかということ、何によってそれを感じたかということ、つまりは自分以外の読者その人の感受性のありようを見たいという気持ちの方が、「客観的に」その作品がどうであるかという興味よりも勝っています。
 大勢に向けてものを言えるのが限られた一部の人だけである媒体と違って、誰もがものを言えるインターネットでは、そもそも個人が「客観的」であろうとすることは必要ないのではないのか、とさえ思います。

 その作品が技巧的に上手かどうか、どのような技巧によって効果を得ているか、といったようなことは、読解の手がかりとなったり、あるいは自分の創作の助けにもなることがあります。でも、真っ先にそうしたことを挙げるよりも、一読者としての「私」が得た感動の根拠をさぐることで同時に詩の技巧が見えてくる、そのようにして詩歌の技巧について言及される方が自然なのではないかと思います。

 中途半端な印象批評は曖昧なものでしかありませんが、徹底して「印象」の根拠をも示そうとするものであれば、作者にとっても他の読者にとっても充分納得のいく読み物とすることができると思います。
 たとえば、「朝顔」という単語一語から引き出される思い出、それは他の誰も知らないことだけれど、その思い出ゆえに自分はその作品に対して感銘を受けた、ということもあるかもしれません。そうであれば、その思い出もろともを含めてその詩を鑑賞したということになるでしょう。その鑑賞自体は、普遍的ではないその読者個人の私的なものだったとしても、作品が一人の読者にどのように何をもたらしたのかが明らかになります。

 ある一語にまつわるイメージは人によって微妙に違うものですが、大勢と重なる普遍的イメージと、個人によって違う部分とを合わせて知らされることも必要ではないでしょうか。

 このようなネットよる場では、ほとんどの人は創作や批評のプロフェッショナルではありませんが、それぞれ生い立ちも世代も違うたった一人の「私」が感じたこと、読み取ったことを、集めることができます。プロフェッショナルではない私たちは、「作者がその作品を書かなければならなかった理由」は何かといったように作者の方を向き、客観的になろうとして読むのではなく、作品が「私」に感動をもたらした理由をつきつめるという、自分自身に向いた読み方ができます。徹底的な印象批評、そのなかに普遍性が見出されるのではないでしょうか。

 詩の読み書きに長けた一部の人がする批評に大勢が頷く、あるいは反論を述べ、それを大勢が見ている、ということだけではなく、たくさんの「私」、決して客観的ではない大勢の「私」による鑑賞が積み重ねられれば、それがネットが普及した時代ならではの批評となるのではないか、と思うのです。


散文(批評随筆小説等) 「徹底的印象批評」のすすめ Copyright 渦巻二三五 2003-08-21 11:09:37
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