数ヶ月前のことになりますが、触発する批評
http://takemoto.picot.ne.jp/incentive/に「ネット詩について」というスレッドがあって、それを読んだとき、「ネット詩」という言葉は急速に広まったけれど今はもうすでに有効に働かない言葉、過去の言葉、のように思えました。この話題に現在の興味はあまりないのですけれど、なんというか、ちょっと懐かしいような感じがして、へぇ、もう「懐かしい」のかと、へんてこな気分になりました。
ネットで発表される詩と詩誌などで発表される詩、ネット対紙上というような捉え方が持ち込まれたのはどちらかというとネット外からであった、と私は思っています。
というのも、『詩と思想』誌でネットで活動する詩人たちについての特集を組まれたとき(2000年)、どこをどう間違ってというか巡り合わせというかご縁があってというか、私にも座談会出席の依頼があったのですが、そのときに示されたテーマにひどく違和感を感じたことが記憶に残っているからです。
自分のネット詩体験とか、ネットから紙の世界をどう見るか、ネット詩のメリット、デメリット、インターネットとニフティの世界の差異、今後のネット詩の課題などが話題になるのではないか、ということを言われて、そのとき初めてネット上対紙上、という捉え方をされていることを知って非常に居心地の悪さを感じたものでした。当時ネットで発表している人たちの間にはそうした捉え方をする人はほとんどいなかったように思います。
パソコン通信を始めてニフティの「詩のフォーラム」に参加したとき、最初私は「詩を書いている人」や「詩を読んでいる人」が集まってくるところだと思っていたのですが、実際はそういう人ばかりではありませんでした。
なにか書けばそれが大勢に読まれるという場があって、だからそこに書く人がいる。ペンションなどに置いてあるノートみたいに、そこに書くところがあるから書いてみる、という感じ。もともとは「詩を書いている人」なのではなくて、この場がなかったら書かなかった、読まなかった人々。私もその一人ですが、そういう人たちが多く書いていました。パソコン通信が衰退してインターネットに移った今でも、それはあまり大きくは変わっていないのではないかと思います。
これは、詩誌や自費出版などしか発表の手段がなかった頃から書き続けている人たちにとっては、その書かれ方、動機からして異質なものと受け取られたのかもしれません。
同人誌に参加するとか、なにか雑誌に投稿するとかいうことになると、どこに投稿するかというのに始まって、やはり自分の方向性(というと大袈裟かもしれませんが)みたいなものを決めなければならないでしょう。いえ、決めなければならないということもないでしょうけど、自分はどうなのかと問われた場合に答えられるように、自分を「統合」しようとする気持ちが出てくるのではないでしょうか。
ネットでは、技量も主義も作風もさまざまな作品が並列にあります。また、一人の人間のなかにも、さまざまな部分がときに矛盾しながらあるけれど、それぞれに合った場所や時間や方法を選んで作品を発表できます。それは自分を統合することなく自分を表現できるということでもあるように思います。
そんなところからも、「ネット詩」の得体の知れなさ、のようなものが感じ取られていたのかもしれないなぁと、これは私の想像ですけれど。
「ネット詩」という言葉は詩誌などからやがてネットでも発表するようになった人たちから持ち込まれたと私は思うのですけれども、そうした(半ば)ネット外からの見られ方を意識した言葉、偏見を持たれているのではないかという意識のあらわれ、として、ネットの方で「ネット詩」という言葉が広まっていったのではなかったか、と私は思うのです。
詩の発表の場といえば詩誌への投稿や同人誌であったときには、自分が詩を書くことやそれを発表することに対する強い意志が必要であり、一方それに比べて「ネット詩」とは、作者自身も「詩」と呼べるものかどうかわからない、一昔前ならノートの隅に落書きにまぎれて書かれていたようなものさえもやすやすと読者を得られるものとしてあります。
ネットで発表することから始めたのがやがて同人誌に参加したり詩誌に投稿したりといった人もいるわけですが、そうしたことの他に、ネット以外での活動もしようとなったときに、ネットで呼びかけ合ってワークショップや朗読会を開くといったふうになっていったのが面白いところだと思います。
詩誌への掲載や各種の賞を受賞するとかいったことが頂点にあって、「ネット詩」はそのピラミッドの底辺になる、というふうにはならなかったのは当然といえば当然のことですが、とても愉快なことです。
詩誌の投稿欄に載ったり詩集を出版したり何か受賞したりといったことが報告されると「おめでとう」と言うコメントが集まります。私も知った人にそういうことがあれば素直に「おめでとう」という気持ちになりますが、よくよく考えてみると、普段、インターネットで非常に大勢の読者を得ている人が、それに比べてはるかに読者の少ない場に掲載されることを喜ぶというのも、なんだか妙な具合だなぁ、などと思います。
インターネットのなかった時代には、詩誌への掲載や受賞は、それまでごく少数の人にしか読まれなかったのが読者を得ることになるわけですから、それはそれは喜びだったことでしょう。けれども、インターネットで易々と大勢の読者を得られる今、印刷物に掲載されることの意味は、読者を得ることではなく、ある権威に選ばれた、ということのみになってしまっているのではないでしょうか。このことについて、投稿欄などを設けている詩誌はどう考えているのか、ちょっと興味あるところです。
ほんの数年前を思い出してみると、インターネットでの創作活動については、なかなかに明るい展望というか、明るい期待感があったように思います。新しい媒体ならではの、なにか新しいものが生まれるのじゃないかといった期待、誰もが容易に大勢に向けて発表できるということで、何が出てくるかわからないといったワクワクする気分というのがありました。
ところがそれからいくらも経っていない今、その当時の明るさがなくなってきているように思います。どこがどうということは言えない、雰囲気なんですが。これはいったいどうしたことなのだろうと思います。