私が人様にはじめて認められた文章は、詩ではなく評論であった。それは静岡県民文学祭で芸術祭賞を受賞した。今の私からみると暴論みたいなところもあるし、古くなっているところもあるし、そもそも「評論」と名乗っていいものなのか未だに自信がないけれど、最初に認められた文章だから愛着はある。それは「后の位も何にかはせむ−少女小説私見−」というタイトルでわりと長文、論じられている小説も一冊ではなく、作者も複数だ(「后の位も何にかはせむ」は、
http://www2u.biglobe.ne.jp/~sasah/reviews/hyo0.htmlにおいてありますが、昔つくったHTMLなのでけっこう読みにくいシロモノです。ごめんなさい)。
複数の作者の複数の作品をあたかも一連の流れのなかにあるもののように論じるという行為は、作者の考えを酌み取るためのものではなく、極端に言えば評論の執筆者である私自身の考えを発表するためのものである。プロである作家たちを読者対象にしてはいないし、少女小説という特殊な分野の読者を対象に書かれたものでもない。「后の位も何にかはせむ」は、少女小説を全く読みそうにないオッサンたちが読者対象なのだ。より正しく言えば、静岡県文学祭評論部門の選者であるオッサンたちである。彼等に「おめーらこんな世界のこと知らねえだろ」と啖呵を切ることを目的に書かれたといってもさしつかえない。しかしそれでもなお、「后の位も何にかはせむ」を書いた根元的動機は、少女小説という特殊な分野と各々の作品への愛である。私は愛情なしに批評を書きたくない。私にとって批評を書くということは、愛情表現以外の何者でもない。他の人がどう思っているかは知らないが、私にとって、批評は私の表現手段のひとつなのである。
何に対する愛情表現かは、場合によって異なる。「后の位も何にかはせむ」という批評は、少女小説に対する愛情表現として書いた。200を越える私の書評は、そのほとんどが各々の書物への愛情表現として書いたものだ(一部例外がある)。「たもつさんの詩の印象」という未完のまま終わりそうな気配の一連の批評は、たもつという詩人の詩に対する愛情表現として書いた。批評に関する雑文(強いて言うなら評論)である"Cry For The Moon"
http://po-m.com/forum/grpframe.php?gid=349は、批評という分野への片思いを表現したようなものだ。かつて蘭の会で行っていたまなコイの私の総評は、各々の詩に対する愛情というよりは、詩という分野に対する愛情を表現したつもりだ。
いったい誰のための批評だ?と私に問わないでほしい、批評は私の表現手段であり、私が表現したいのは愛だ。あなたが詩で愛を歌いたいと願うように、私は批評という理屈っぽい文章で愛を伝えたいと願う人間なのだ。
しかし、いくら動機が愛だとしても、摩擦は避けにくい。「詩という分野に対する愛情」を表現しようとして、結果として酷評になることがある。「詩という分野」の全体的向上を願って、添削的なセンセーぶった批評を書いてしまうこともある。場合によっては「あるひとつの詩サイト」への愛情ゆえに、なんだかひんまがった優しいのか厳しいのかわからん文章を書いてしまうこともあり、そんなものが原因でブチ切れてしまった苦い過去が私にはある。しかし私はもうそういうことをしないだろう。私はいま、「あるひとつの詩サイト」に対する激しい愛情など持っていないから。
また、あるひとつの作品への複雑な愛情を表現しようと努力したあまり、結果としてその作品に対する批評への反論になってしまうこともある。ひとつの詩に対する解釈が異なる場合があるのは当たり前で、たとえ解釈が似たようなものであったとしても、批評と批評はぶつかりあうことがある。まるで、ひとりの恋人を巡ってふたりの人間が争うかのように。恋人が人間であれば、どちらかを選んでくれることが多いから、話はそれで済む。しかし詩の場合は難しい、たとえ作者が片方の批評者の意見を認めたとしても、読者の多数はもう片方の批評者の意見の方こそ正しいと主張するかもしれない。ふたりの批評者のどちらが正しいか、誰一人決めることはできない。強いて言うならば、未来の誰かが歴史的観点に基づいて決めてくれるだろう(それだけ長くネット上の詩と批評が生き延びたら、の話である。もしかしたら、根気強く長く続けたもん勝ちかもしれないぞ)。
私は釈明しない、無罪を主張しない。私の批評は酷評になる場合がある、私は批評に対しきつい反論をする場合がある。私は自分の有罪を認める。しかしそれでもなお私は主張する、私の批評がどんなに暴力的に見えようとも、その根元的動機は、愛だ。